2018年2月1日木曜日

20180201 【再投稿】岩波書店刊 中島岳志編『橋川文三セレクション』pp.90-93より抜粋引用

一体、明治期におけるナショナリズムの理念を支えた主体の構造はいかなるものであったか?
いうまでもなく、その心理的基礎の一貫性として考えられるものは、幕末の攘夷論にみられる士族的危機感にほかならなかった。
しかし、その実感としての危機感が、開国=維新の論理に旋回しえたのは、国際関係に対する一種の普遍的理念の媒介を必要とした。
つまり、鎖国と幕藩体制というスタティックな環境において形成された武士階級の思考様式の中から、全く新しい問題状況(国家と国家の交際もしくは対峙)への適応態度が展開するためには、そこのなんらかの変換軸が存在しなければならなかった。
この問題について、もっとも深い洞察を示したものは、丸山真男が「近代日本の思想史における国家理性」等で提示した解釈であろう。
その要旨は次のようなものであった。
まず旧武士階級の認識の中に列強対峙という国際社会のイメージが比較的スムーズに、リアリスティックに定着しえたのは、「日本の国内における大名分国制からの連想ではなかったろうか。
戦国時代の固定化としての大名分国制によって多年養われた国内的イメージは、国際的危機感に触発されて、いまや世界規模にまで拡大(丸山真男「開国」)されたためと考える。
また、国際的規模(国際法)の存在が同様に比較的スムーズに承認されるにいたったのは、「・・・要するに儒教的な天理・天道の観念における超越的な規範性の契機を徹底させることを通じて」(同上)実現されたものと考えられている。
この二つの仮説は、東海散士のナショナリズムを考える場合にも有効であろう。
この仮説と、先に引いた飛鳥井論文における集団―個人に関する解釈とを結びつけることによって、私は「佳人之奇遇」におけるナショナリズムの思想史上の定位を明らかにすることができると考える。
引用の部分に示されるように、亡国の遺臣たちの談話を聞いたとき、散士の胸中にあふれたものは、何よりも会津藩滅亡の回想であった。
これはいうまでもなく士族的実感の立場であり、その実感がそのままアイルランド、スペイン等々の独立問題に対する散士の論理的思考の基礎となっている。
封建的思考の次元で養われたナショナリズム(封建的忠誠)が、そのまま国際的規模に拡大されているのである。
散士は自己の身分と結びついた体験の含む普遍性について何ら疑わないばかりか、己のイメージを幽蘭や紅蓮、范卿の境涯と同一化して涙を流すのである。
ここではまさに大名分国制の中で養われた国家の対峙の感覚が、そのまま国際社会の事態にあてはめられている。
散士ばかりではない。一般に分国制のもとでの体験が強烈なナショナリズムへの媒介契機となった例は少なからず見出せる。そのもっとも有名なものの一つは、板垣退助が「自由党史」で述べている感想だろう。
彼は東征参謀として会津落城を実見したのであるが、そのさい、藩に殉じたものはわずか五千の藩士にすぎず、庶民はただ逃げ惑うのみであったといわれる。
さらに、前に見た福沢の場合でも、やはりその封建下の諸体験が、国際政治の論理的理解の基礎になっていた。
一方、士族的ナショナリズムの健全な側面として特徴的なことは、対外人コンプレックスの比較的少ないことであった。
それは、すべての人類の妥当する普遍的規範の意識がかれらにおいて健全に保たれていたことによるが、「佳人之奇遇」においてそれがもっともよく示されるのは、やはり散士と外国女性との交情においてであろう。
そこには近代的恋愛の複雑な内面関係はないかもしれないが、人間同士の恋愛の姿は、比較的、普遍的な感動を引き起こす形で描かれている。
これらの事情について飛鳥井は「佳人之奇遇」において「個人は民族の代表者としての意味を持っていた。
変革期において、個人はそのバックとする集団と本質的な矛盾を持たず、個人の運命はその集団の中に溶け込んでいた」と述べている。
これは概括的な意味では正しいであろうが、問題はその集団の統一核となる精神構造―そのイデオロギーの内容であろう。
ここでは、その点において、伝統的思考様式(教養)の果たした役割を合わせて考えることが必要であった。
「佳人之奇遇」におけるナショナリズムの士族的起源について、以上の様な考察を行ったのちには、その文体の問題は比較的容易に類推することができよう。
それは簡単にいえば「漢学趣味とロマンティシズム」の結合形態であったが、新たな国際社会へと開かれたヴィジョンは、当面、漢文くずしの文章でしかこれを表現することが出来なかった。
そのことは、透谷や樗牛、鴎外(とくにその「即興詩人」)、土井晩翠などについても一部適合する事情であったが、なぜそれ以外の文体が有効たりえなかったは、近代文章史において、より詳しく検討される必要があろう。

橋川文三セレクション (岩波現代文庫)
橋川文三セレクション (岩波現代文庫)
ISBN-10: 4006002572
ISBN-13: 978-4006002572
橋川文三

20180201 文藝春秋刊 夢野久作著『近世快人伝』pp.27-30より抜粋引用

文藝春秋刊 夢野久作著『近世快人伝
pp.27-30より抜粋引用
ISBN-10: 4168130460
ISBN-13: 978-4168130465
『維新後、天下の大勢を牛耳って、新政府の政治と、新興日本の利権とを併せて壟断しようと試みた者は、所謂、薩長土肥の藩閥諸公であった。
その藩閥政治の弊害を打破るべく今の議会政治が提唱され初めたものであるが、そもそもその薩長土肥の諸藩士が、王政維新、倒幕の時運に参画し、天下の形勢を定めた中に、九州の大藩筑前の黒田藩ばかりが何故に除外されて来たのか、筑前藩には人物が居なかったのか。もしくは居るとしても、天下を憂い、国を想う志士の気骨が筑前人には欠けていたのかというと、ナカナカそうではない。
事実はその正反対で、恐らく日本広しと雖も北九州の青年ほど天性、国家社会を患うる気風を持っている者はあるまいと思われる。そうした事実は、明治、大正、昭和の歴史に出て来る暗殺犯人が大抵、福岡県人である実例を見ても容易に首肯出来るであろう。
維新前の黒田藩には、西郷南洲、高杉晋作に比肩すべき大人物がジャンジャン居た。流石の薩州も一時は筑前藩の鼻息ばかりを窺っていた位である。
有名な野村望東尼を仲介した西郷、高杉の諸豪は勿論、その他の各藩の英傑が盛んに筑前藩と交渉した形勢は筆者の幼少の時に屡々、祖父母から語って聞かされた事である。
但しそれ等筑前藩の諸英傑が、何故に維新以後、音も香もなくこの地上から消え失せてしまったかという、その根元の理由に考え及ぶと、筆者も筆を投じて暗然たらざるを得ないものがある。
 筆者の祖先は代々黒田藩の禄を喰んでいた者だから黒田様の事はあまり云いたくない。しかし何故に維新後に筑前閥が出来なかったか・・・という真相を明らかにするためには、どうしても左の二つの事実を挙げなければならぬ事を遺憾とする。
一, 当時の藩公が優柔不断であった事。
二, 黒田藩士が上下を問わず人情に篤く、従って藩公に対する忠志が、他藩の藩士以上に潔白であった事。
ところでここで今一つ、了解しておいてもらわねばならぬ事は、昔の各藩の藩士が日本の国体を知らなかった・・換言すれば昔の武士というものは、自分の藩主以外に主君というものは認識していなかった事である。
これは誠に怪しからぬ事で、今の人には到底考えられない、同時にあまり知られていない大きな事実で、同時に時節柄、御同様まことに不愉快な史実でもあり得るのであるが、しかしこの史実を認識しないで明治維新の歴史を読んでいると飛んでもない錯覚に陥る事がある。すくなくとも王政維新なる標語を各藩に徹底させるのが、どうして、あんなに骨が折れたのかと不思議の感に打たれるので、黒田藩では特にこうした傾向が甚だしかった事が窺われるようである。
そこへ藩公が優柔不断と来ているからたまらない。佐幕派が盛んになると勤皇派の全部に腹を切らせる。そのうちに勤皇派が盛り返すと今度は佐幕派の全部を誅戮する。そうすると藩士が又、揃いも揃った正直者ばかりで、逃げも隠れもせずにハイハイと腹を切る・・といった調子で、最初から一方にきめておけば、どちらかの人物の半分だけは救われたろうに、藩論が変わるごとに行き戻りに引っかかってバタバタと死んで行ったのだからたまらない。とうとう黒田藩の眼星しい人物は、ほとんど一人も居なくなってしまった。たまたま脱藩して生野の銀山で旗を挙げた平野次郎ぐらいが目っけもの・・という情けない状態に陥った。
しかし世の中は何が仕合せになるか、わからない。こうした事情で明治政府から筑前閥がノックアウトされたという事が、その後に於けると頭山満平岡浩太郎杉山茂丸内田良平等々の所謂、福岡浪人の闊歩の原因となり、歴代内閣の脅威となって新興日本の気勢を、背後から鞭撻しはじめた。・・・何も、それが日本のために仕合せであったに相違ないと断定する訳ではない。随分迷惑な筋もあったに違いないが、しかしそうした浪人の存在が、西洋文化崇拝の、唯物功利主義の、義理も、人情も、血も、涙も、良心も無い、厚顔無恥の個人主義一点張りで成功した所謂、資本家、支配階級の悩みの種となり、不言不語の中に日本人特有の生命も要らず名も要らず、金も官位も要らぬ底の清浄潔白な忠君愛国思想を天下に普及、浸潤せしめた功績は大いに認めなければならぬであろう。従って歴史に現れない歴史の原動力として、福岡人を中心とする所謂九州浪人の名を史上に記念しおく必要がないとは言えないであろう。』