2017年11月29日水曜日

20171129 昔の神話・物語におけるきのこについて・・ (書籍三点よりの抜粋引用)


「アジア史概説」 宮崎市定著 中央公論社 p206
「インド文化と日本」
「日本では古来インドを普通に天竺、中国を唐(から)とよび、日本・唐・天竺の三国が世界の文化を代表するものと考えた。いわゆる三国一は世界一を意味し、三国伝来はもっとも珍奇貴重という意味であった。インドの文明は日本では仏教文化で代表されていたが、この仏教文化はたんに宗教思想としてでなく、インド文化全体日本に紹介する通路となったものであった。「今昔物語」にはインドの寓話が数多く転載され、盂蘭盆、施餓鬼などのインド行事は、中国社会を通じて日本にも伝わり、暦術、音韻学も日本に輸入された。今日もなお日本で盛んな囲碁や将棋もその起源はインドにあると認められている。」

「今昔物語」福永武彦訳 ちくま文庫 pp328-329
「今は昔のこと、京に住む木こりたちが連れ立って北山に行った事があった。すると道に迷って、どちらに帰ればよいのかわからなくなり、山の奥深く四五人ばかり集まって、嘆いていた。すると山奥のほうから人が来る様子。誰が来るのかと不思議に思っていると、四五人ほどの尼さんたちが、歌を歌い、手振り足振りで舞を舞いながら、姿を現した。木こりたちはこれを見て怖がり、舞を舞いながら来るとは、この尼さんたちはとても人ではあるまい、天狗かしらん、鬼神かしらん、などと顫えていると、尼さんたちは木こりを見つけてまっすぐにこちらに来た。
 とうとう尼さんたちがすぐそばまで寄ってきたので、木こりはびくびくしながら、「もうし、あなた方はどうしてそんなに踊りながら、山奥からおいでになったんです?」とたずねると、尼さんたちが答えるには、「わたくしたちがこんなに踊っているので、お主たちもきっと不思議に思っておいででしょうが、わたくしどもは某に住む尼です。花を摘んで仏さまにお供えしようと、連れ立ってこの山に登りましたが、道に迷って帰れなくなりました。そこにたまたま茸が生えているのを見つけて、ひょっとこれを食べたらあたるかもしれないとも思いましたが、空腹のあまり飢えて死ぬよりは、いっそ食べましょうと思って、焼いて食べました。たいそうおいしかったので食べて良かったと思ううちに、いつのまにか、その気でもないのに手足が動き出して、この様に舞を舞い始めました。不思議なことと思いますが、何とも止めようがありません」と言って踊っているので、木こりたちも話をきいてあきれはてた。
 しかしこれらの木こりたちも、やはりしだいに腹がへってきたので、尼さんたちが食い残してなお持っていたその茸を、死ぬよりはましだともらいうけて食べた。そうすると木こりたちも、ちっとも気がないのに同様に手足が動き出した。そこで尼さんも木こりも、お互いに舞い続けながら相手の踊るのを見て笑った。しばらく踊ったのちに、どうやら酔いがさめたような気分になって、どこをどう歩いたともわからぬうちに、おのおの自分の住まいに帰った。こののち、この茸のことを舞茸と呼んだ。思えばたいそう怪しいことである。近頃でもこの舞茸というものはあるが、それを食べても必ず舞うとは限らない。どういうわけか不思議千万だ、という話である。」(巻廿八第廿八話)


「ギリシャ神話・新版」ロバート・グレイヴス著 高杉一郎訳 紀伊国屋書店 pp8-9 
「あるエトルリアの鏡のイクシオーンの足の下に、一つの生のきのこ(アマニタ・ムスカリア)が刻まれている。イクシオーンは神々のところで神々の食べ物(アムブロシアー)を食べたテッサリアの英雄だった。彼の子孫であるケンタロウスたちもまた、この生のきのこ(アマニタ・ムスカリア)を食べたのだとする私の説は、いくつかの神話であきらかにすることができるし、のちになってノルウェーの「狂戦士たち」(バーサークス)が戦闘にのぞんで危険をかえりみぬ力を発揮できるように生のきのこ(アマニタ・ムスカリア)を食べたことは、何人かの歴史家たちが証言している。現在の私は、神々の食べ物(アムブロシアー)と飲み物(ネクタル)というのは、麻酔力のあるきのこだったと信じている。まちがいなく生のきのこだったし、ひょっとすると、なかに小さくてほっそりした糞きのこ(パナエオロス・パピリオナケオス)も混じっていたかもしれない。糞きのこ(パナエオロス・パピリオナケオス)は無害だが、ひどく楽しい幻覚をひきおこすのである。糞きのこ(パナエオロス・パピリオナケオス)に似ていなくもないきのこが、アッティカの壺の上のケンタロウスのネッソスのひづめの間に描かれている。神話の中で、神々の食べ物(アムブロシアー)と飲み物(ネクタル)が捧げられた「神々」というのは、前古典時代の聖女王と聖王だったのだろう。タンタロス王が犯した罪というのは、彼が禁制(タブー)を破って神々の食べ物を人間の友人たちにわけあたえたことだった。
 ギリシャでは、神聖な女王権も聖王権もやがて衰えていった。すると、神々の食べ物(アムブロシアー)は、ディオニューソスとかかわりのあるエレウシース、オルペウス、その他の秘教の聖餐になったらしい。どの場合も、その参加者たちは、何を食べ、何を飲んだか、どんな忘れがたい幻影を見たかについてはかたく沈黙を守ることを誓った上で、不死の生命を約束されたのだった。オリムピックの徒競走に勝利しても、もはや聖王権があたえられるわけではなくなったのちの優勝者に与えられる「神々の食べ物」(アムブロシアー)はあきらかに代用品で、いろいろな食べ物私が「ケンタウロスたちはなにを食べていたか」という本のなかに書いたように、その頭文字がギリシャ語で「きのこ」になるようないくつかの食べ物を混ぜ合わせたものだった。神々の飲み物(ネクタル)や、デーメーテールがエレウシースで飲んだはっか(ミント)の香りのする飲み物のつくり方を記している古典作家たちの文章を読み取るとどちらからも「生のきのこ」という文字が出てくる。
 私は、メキシコのオアハカ州のインディアンたちが遠い昔から神々の食べ物(アムブロシアー)だとしている幻覚を引き起こすきのこを自分でも食べたことがある。そのとき、女祭司がきのこの神トラロックを呼び出す声も耳にしたし、理解を超える幻覚も見た。だから私は、この古代の祭式を発見したアメリカ人R・ゴードン・ワッソンが、ヨーロッパ人の天国と地獄に関する観念は、これに似た秘教から生まれたのではないかという説に心の底から賛成である。トラロックの神は電光のなかからあらわれるが、ディオニューソスもやはりそうだった。ギリシャの民間伝承でも、メキシコのマサテクでも、きのこはすべて一般に、どちらの国のことばでも「神々の食べ物」になっている。」



ジョン・エリス著 越智道雄訳「機関銃の社会史」平凡社刊pp.32-36より抜粋

南北戦争(1861~65)において、実戦で役立つ機関銃が初めて現れ、それ以後、機関銃は急速に発達する。発展の舞台は、ほぼアメリカに限られるので、本書もこれから先はこの国を中心に論じることになる。
1860年には、アメリカはイギリスに次ぐ世界第二の工業国となっていた。なかでも、それまで熟練工がやっていた仕事を引き受ける機械の発達と、それらの機械を一つの工場に集めたという点で、他のいかなる国よりもはるかに先を行っていた。こうした工業的優位には、いくつかの理由がある。最も重要な理由は、19世紀初期のアメリカが深刻な人手不足に悩まされていたことだろう。
新しい工場が労働力を確保するためには、高賃金を支払わなければならなかった。製品の値段をあまり上げないとすれば、この高い賃金で雇った労働力の生産性自体を高めるしかない。
そこで、労働者一人当たりの生産性を高めるために、機械と合理化された集中生産設備が導入されることとなった。
二番目の理由として、初期に使われていた機械のうち、完全にアメリカ製のものはごくわずかしかなかったという事実が挙げられる。
殆どの機械はすべてヨーロッパのデザインもしくは製品を模倣したものだった。
しかし、こうした機械を初めて活用したのはアメリカ人だった。というのも、アメリカには、機械化された自分たちの伝統的な生活様式を脅かすものとみなす組織だった職人階級が存在しなかったためだ。
実をいえば、機械の能率に頼らず人間の技能を基になんらかの大量生産の試みに取り組める職人など、そもそもほとんどいなかったのである。
機械的な大量生産方式の先駆者、イーライ・ホイットニーは、こうした生産方法を取り入れた理由を簡潔に述べている。
その目的は、「長年の訓練と経験によってのみ培われる職人の技能を、正確で能率的な機械作業に置き換えることである。その種の技能は、わが国ではいまだに一定の水準に達していない。」こうして「物を作る機械を作るための新しい方式が、アメリカで生まれた。それは単純ではあったが、広範な影響を及ぼす変化であったため、伝統や制度、確立された技能に支えられたヨーロッパでは受け入れられるのがむずかしかった。」
かくして、アメリカ人は世界のどの国よりもずっと早く機械化された産業に依存するようになっていた。
さらに、こうした機械そのものを製造しなければならず、それも単なる人間の技能の限界ではなく、機械の能力という観点から考えなければならない必要性から、より高性能の機械を作り出すことに精力を傾ける専門家の集団が登場してきた。
この結果、工作機械産業の最初の重要な発展が見られ、切削、研削におけるさまざまな金属の特性が研究されるようになった。
そして、機械ならほとんど正確に、まったく同じ寸法の部品を何度でも作れるという特質に新たな関心が集まった。
19世紀アメリカでは、「人間ではなく、機械が専門家となったのである。」機械への依存は、もう一つかなり重要な側面を持っている、ごく初期から、工作機械はつねに小火器の製造ときわめて密接にかかわっていた。
どの国の軍隊でも、たえず同一の装備、たとえば武器、軍服、装具などを大量に必要としていたことを考えればおそらくこのつながりをよく理解できるだろう。
しかし、なかでもアメリカは特殊なケースだった。ヨーロッパの軍の発注、とりわけ銃の注文に対しては、昔から何人もの銃工たちが力を合わせて請け負うことになっていた。
16世紀から18世紀のあいだ、軍事技術はほとんど停滞状態にあったため、どの国の軍隊も、一度に大量注文を出さずに、長年こつこつと銃を蓄えることで、とくに問題を生じることはなかった。
しかし、アメリカでは職人の作った銃を蓄えておくという歴史もなく、さらに軍の需要を満たすだけの銃工がいなかった。
しかも19世紀はじめの軍の発注は特に急を要した。なぜなら「15年前、独立を勝ち取ったときに使っていたマスケット銃はフランスなどヨーロッパで作られたものだったからだ。
(中略)それ以来、アメリカでは軍の武器がほとんど作られていない。(中略)事実上、この国は無防備状態といえる。」この事態を解決するには新しい技術者たちに頼るほかなかった。
この分野での偉大な先駆者がホイットニーだった。1798年、アメリカは何の軍備も整わないままフランスとの戦争に突入しようとしていた。そこでホイットニーは、向こう二年四ヶ月以内に一万丁のマスケット銃を製造するという契約を政府と交わした。実際には、契約通り銃を納め終わるまでに十年の年月を必要とした。しかしここで重要なのはホイットニーが納期を守れなかったことではなく、このような早い段階ですら、アメリカでは、武器の製造と工作機械の結びつきがしっかりと確立されていたという点である。
この時代、初めて実用に耐えうる機関銃がアメリカに現れたという事実については、認められるかぎりで、主な理由が三つある。
まず第一に、19世紀初期のアメリカ社会の特殊性にために、生産能力を増強したいと思えば、機械化と効率的な生産方式に頼らざるを得なかった。
そのことが、より複雑な機械の製造に関する新たな専門知識と関心をもたらし、より耐久性のある金属と、ますます高い精度が問題にされるようになった。
第二に、こうした工作機械の発達がつねにアメリカの小火器産業の発展と密接な関連を持っていたことである。
したがって、信頼性のある機関銃を作るという難問を最初に解決したのがアメリカ人であったことは、さほど驚くにあたらない。
第三に、もっと一般的なレベルで、このような機械への依存が、機械のもつ無限の可能性という新たな信仰を、そして十分な努力を続けさえすればどんなものでも自動化できるはずだという信念を、生み出したことである。
したがって、アメリカ人が最初の機関銃を製造するための道具とノウハウを持つようになったのはごく自然なことであり、また同じように、殺人をクランクを回すかボタンを押すという次元の問題に変えてしまうことを本気で願ったのがこの国の人間だったというのも、まったく理に適ったことではないだろうか。
以上が、性能のいい自動火器がアメリカで発展するための前提条件だった。しかし、この武器が実際に日の目を見るようになるためには、もう一つ、きわめて特殊な事件がかかわっていた。それが南北戦争である。すべての専門家が口を揃えて言うように、この南北戦争こそ、まぎれもない史上最初の近代戦であり、ここで初めて新しい技術の威力が発揮されたのである。


機関銃の社会史
ISBN-10: 4582532071
ISBN-13: 978-4582532074