2017年10月14日土曜日

20171014 ブログ記事作成手法に関しての秘密について・・今後の一つの選択肢

A「まず先日、ブログ記事作成の際に不図考えたことを以下に書いてみます。

『これまでのブログ記事作成の作成過程とは、その初期においては書籍からの抜粋引用を数多く行い、次いで対話形式文章による自身の文章へと変化し、その後、現在のような独白形式の文章へと変化していったと云えます。

そして、現在の独白形式による記事作成において、書く主題に窮した場合、既読の書籍にて書かれていた印象的な文章に多少手を加え加工し、自身の作成した文章として投稿することも可能ではなかろうか? 』

以上が、不図考えた内容です・・。

これまでに自身はブログ記事にて書籍からの抜粋引用を行う場合、概ねその出典を示してきましたが、あるいはそうした手法・様式に沿わなくとも、それを看取し指摘、糾弾する方々がいなければ、また、そうした記事を面白いと感じて頂ける方々の方が圧倒的に多いのであれば、そこには何らかの意味があるのではないかとも考えらます・・。
(この価値判断は難しいかもしれません・・。)

しかしながら、何故か自身は、これまでにそうした行為に踏み切ることはなく、またそれ以前に、毎回作成するブログ記事の主題に対し、そこまで窮することがなかったのかもしれません・・。

そしてそれは、少なくとも今後しばらくは同様であると考えます。また、そのように認識しているからこそ、自身はこうしたブログ記事作成に際しての暗部もしくは創造の秘密とも場合によっては評し得ることを書いているのです・・(笑)。

とはいえ、さきに書いた既存文章の加工によるブログ記事の作成とは、今後用い得る記事作成の際の一つの選択肢であり、自身の創造性の強化・賦活に対しては決して良いとはいえないのかもしれませんが、それに依り毎回の記事作成を行うのでなければ、深刻に悪いものではないのかもしれません・・。

またそれに加え、その手法によって作成されたブログ記事の場合、参考とした著作、記述部分を明確に示すのであれば、隠してそうした行為を行うよりかは幾分かはマシであり、少なくとも糾弾されることではなくなるものと考えます・・。

とはいえ、今後、実際にその記事作成手法を本格的に用いるかどうかは現段階においては分かりかねるところではありますが・・。

おそらく、この『書く』ということを唯一の業務、職務としていない場合の多くにおいては、一日を過ごすなかで何かしら書くに値することを見出すことは可能ではないかと考えるのです。

そして、その見出された事物について書き連ねていく過程において、さらなる考えが誘発・惹起され、結果的にある程度の量の文章といったものを作成することが可能になるのではないかと思われるのです・・。

もとより、それは一種の鍛錬でもあり、また、そうした行為を自然に継続することにより、さらに他の何かが出来るようになるのではないかとも思われますが、その内容もまた現在の自身には分かりかねるところです・・(苦笑)。

今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年から現在までに列島各地において生じた一連の地震・大雨・水害等など大規模自然災害により被災された地域の諸インフラの復旧・回復およびその後の復興を祈念しています。

くわえて、引き続き、先日より新たに噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事も祈念しています。』




20171013 我が国における種族文化の積層・混淆あるいはそれは一枚岩・単結晶のようなものであるのか?

本日の首都圏は日中より現在に至るまで断続的に降雨状態であり、また気温も日中より上がらず現在に至っています。これにより、さらにもう一段階、秋が深まったように思われます。また、昨日から本日にかけてのこの変化とは、ここ最近ではかなり大きなものであり、そのことから本日に関しては、やや防寒に重点を置いた上着を羽織って出て正解であったように思います。

さて、本日もまた電車移動の際にジャレド・ダイアモンド著『銃・病原菌・鉄』上巻および岡正雄論文集『異人その他』を読んでおり、途中どうした経緯か、後著作の末尾にある大林太良による解説を読んでみることにしました。
そこでは先日投稿分記事にて書いたように、著者・岡正雄が研究の際の基本的な視座とした『我が国の有史時代に至るまでの時代の経過のなかで、さまざまな北東・南アジア諸族文化が我が国に、これまたさまざまな経路によってもたらされ、そしてそれらが国内諸地域にて在来のものと混淆し、諸族文化の濃淡、特徴を示しつつ(遺しつつ)地域文化として定着していった。』といった考えは、古くから現在に至るまで我が国において一般化された認識には至らず、むしろそれとは反対の意見とさえいえる『我が国における民族文化とは辺縁地域における多少の例外は認められるものの、概ね一枚岩様である。』といった意見の方が今もって主流となっているのではないか?といったことが書かれていました。
しかしその一方で、ここまで書いていて不図思い起こさせるのは10月4日投稿分記事『習慣・日課となったブログをどのようにして継続するか・・★』での『ジャレド・ダイアモンド著 『銃・病原菌・鉄』上巻作中にて『日本では人種の違いが優劣の原因となっていることが平然と信じられている』といった記述に関してのことです・・。

この記述から考えてみますと、それは国際社会あるいは他の多民族国家社会内部に対しての我が国からの評価であるのか、はたまた自らの国内事情に対しての評価であるのか、もしくはそれら全てであるのかとは10月4日投稿分ブログ記事においても少しは触れましたが、さらに、さきの『異人その他』巻末の大林太良による解説内容とを加味して考えてみますと、そこには明確に矛盾とは評し得ないにしても対立する意見が存在するのではないかと考えられるのです。

あるいはまた、それは本音と建前の間にある対立に近いものであるのでしょうか?いずれにしても、そこにもまた多少なりとも深い何かがあるのではないかとも思われるのですが、さて如何でしょうか?

今回もまたここまで読んで頂いてどうもありがとうございます。

昨年より現在までに列島各地にて発生した一連の地震・大雨・水害等など大規模自然災害によって被災された地域の諸インフラの復旧・回復およびその後の復興を祈念しています。そして引き続き、つい先日より新たに噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事も祈念しています。