2017年6月10日土曜日

20170609 記事の着想が得られ難い時にはどのような文章を書けば良いのか・・?

A「どうしたわけか少し以前より、直近の投稿記事ではない、随分過去の投稿記事がポツポツと読まれているような状態が続いております・・。

また、その読まれている記事の間には特に共通性といったものは看取されないことから、今現在においては、そこにどのような『意味』があるのかとは認識することが困難です。

とはいえ、同時にそうした一連の反応から、悪意らしきものをも看取することも困難でありますので、まあ単純に『読んで頂いてどうもありがとうございます。』といった反応が適切なのではないかと思われます・・。

また投稿記事数も650に近づきつつありますが、これといった心境の変化なども生じることはなく、ほぼ毎日このような感じで記事を作成しています・・。

そして、こうしたどちらかといえば単調な『作業』を通して、今後、何かしら新たな変化とは生じるのでしょうか・・?

しかしながら自身の体験に基づきますと、ブログ記事を書いていて、こうした考えが浮かぶのは、概ね新たな着想が得られない時であり、そのことから、こうした考え、視点とは、おそらく、なくしてはいけないものではあるのでしょうが、同時に過度に焦点を当て過ぎても、あまり良いものではないのかもしれないと思われるのです・・(苦笑)。

それはせいぜい、こうした着想が得られ難い状態にもかかわらず、何かを書かなければならない時にしばしば役に立つといったものであるように思われます・・(笑)。

そのように考えてみますと、おそらく一概に文章を書くとは云っても、その内容とは、大きく二つに分けて、外界に対する興味から発するものと、内心への興味による内省的なものがあるのではないかと思われます・・。

つまりは、自身の状態が外界に対し能動的になっておりますと、やはりその書かれる文章もまた、自然そうした内容を取り扱うようになり、一方、内心への興味に傾いておりますと、どちらかというと、そうした文章になるようです・・。

こうしたことは、これまでにブログ記事の継続的な作成のために多少考えたことがありましたが、それでもその原因というものは明確には分かりませんでした・・(苦笑)。

とはいえ、それが分からずとも、こうした(形式が決められていない)ブログ記事を書くというのであれば、さきに書いたように、特に外界への能動性、興味に由って書かれていなかればならないというわけでもないことに気が付き(これは本当に思い込みでした。)、その文章とは、内心への興味に基づくものであっても特に問題はないようです・・。

しかし、ここで少し問題になることは、この内心への興味に基づく文章を書く場合においては、時として、そして意図せずに、自身の普通、一般的ならざるところを顕してしまうおそれがあることです・・(苦笑)。

こうしたことは特に我が国の社会においては強く意識されるところでもあり、おそらくブログなどで生じる『炎上』といった現象も、多くは、こうしたことに端を発しているのではないかと思われます・・。

そのことから、あまりそうしたことを気にしないつもりでいた自身も記事を書き進めるにつれ、徐々に泥沼にはまっていくように身動きが取れない状態に陥り、そこから自分なりに試行錯誤をした結果、対話形式の文体を採り書き続け、再びどうにか文章を書けるようになっていったと一連の経緯を物語ることが出来ます・・。

この対話形式の文章とは、当初より文体をあまり必要としない口語体で書くことが出来、また、その文章が独白形式のように全てが作成者のものとは見做されず、加えて多少フィクション的要素が存在することにより、公開を前提とする文章作成の際に生じる緊張感を和らげるという効果があったのではないかと思われます・・。

とはいえ、こうしたことはあくまでも自身の経験に基づく個人的なものであり、万人に対して普遍的な効果を持つとは断言できません・・。

ただ、記事として書いておいても特に不味いとは思われないことから、今回このように書いておく次第です・・。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

去る2016年、
熊本、山陰東部、福島県周辺を襲った地震により被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そして、その後の速やかな復興を祈念しております。」