2017年3月12日日曜日

20170312 学問分野の違いから思うこと、今後の社会について・・

一連のブログ記事を読んで頂いている方々に『どのような記事を面白いと感じるのですか?』と尋ねてみますと
『院生時代の出来事を扱った記事に比較的面白いものが多い。』とのことであり、その理由とは『知らない分野での院生の様子が垣間見られるから。』とのことでした・・。

たしかに分野が異なりますと、院生達がめいめいの所属する分野にて、どのように研究が為され、また、どのように毎日を過ごしているのかといったことはなかなか分からないようです・・。

私も人文社会科学系の博士課程院生がどのような生活を送っているのかとは、知人等からのさまざまなハナシを聞くまでは見当も付きませんでした。

しかし、実際にハナシをしておりますと、やはり各々専門分野での知識がより深化、洗練されていることが感じられ、それは以前の修士課程在籍時での議論と比べますと、より本質的、突っ込んだ議論になっていることが実感されます。

その点、自身は修士、博士課程間で専攻が大きく変わり、それに伴い研究進行の仕方も人文社会科学系のそれとは大きく変化したため、しばしば、そこからの質問を受けることがあります・・。

自身の場合、そうした質問に対し、精確ではないにしても、大きな分野間の背景文化の相違に関しては、概ね的外れとは云えない返答をしているのではないかと考えます・・(笑)。

そうした中でもっとも疑問に思われることは『研究が行われる過程』についてです。

多くの理系学問分野の場合、研究の進行に際し、さまざまな実験、分析機器を扱う必要性が生じます。

また、そうした機器は必ずしも所属する講座に全て設置されているものではないことから、何処か他の講座、研究室、大学等で機器を使用させて頂いたり、あるいは試料の機器分析を依頼することになります。

そうしますと、その一連の実験とは、主体一人で為されるものではないことから、その発表に際し、協力頂いた方々の名前を連名することになります。

そして、それらを監督、統括するのが指導教員であることから、その顔の広さ、人脈とは、講座所属の院生達の研究進行に対し、少なからぬ影響を及ぼす要素であると云えます。

さらに講座所属の院生達は各々研究テーマがあるのですが、それらも部分的に重複していたり、あるいは機器分析の手法が類似していたり、または先行研究論文の抄読会、発表用のポスター、スライド作成、予演会に同席することから、概ね必然的に同じ時期に講座に在籍していた院生の研究テーマの内容に関しては理解を得ることが多いと云えます。

そして、そうした環境、背景文化とは、やはり同じ『院生』とは云っても、分野毎に大きく異なり、また文系、理系の間では、そう簡単に相互理解をはかることが出来る性質のものではないのかもしれません・・。

また、その意味から自身は『大変面白い経験をさせて頂いた』と云うことが出来るのかもしれません・・(笑)。

しかし同時に、そこで強く思うことは、院生時に自身の所属する分野とは異なる『興味を持てる』分野にて、ある一定期間研究に従事するというのは、研究に不可欠な創造性を養う上でかなり効果的ではないかということであり、さらには、出産休暇、育児休暇のように、企業等に在籍している状態を保持し、企業から一時的に離れ、大学にて研究に従事することが出来れば、大学、企業双方に加え、社会全体にとっても(中・長期的に見れば)有益ではないか思われるのですが、如何でしょうか?

こうしたことは医歯薬看護分野においては、比較的それに近い状況にあると云えるのかもしれませんが、文系分野については、あまり(短期的に見て)実質的な効果が望めないことから、ほぼ為されていないように思われます・・。

『専門職大学院は?』と考えられる方々がいらっしゃるかもしれませんが、そうではなく、より『古来よりの文系』つまり思想、哲学、歴史学分野といった(到底)実利的とはいえない分野にて、それを学び、研究することを自ら(内発的に)望む方々が増えることが、社会に対し何かしらの良い変化、影響をもたらすのではないでしょうか

あるいは医療系専門職にして、上記の文系分野にて本気で知見を深めたいというのは、大変意義のあることではないでしょうか・・?

また一方において、昨今さまざななハナシを聞いておりますと、今後は医師、歯科医師免許を持ったミュージシャン、学位を持った芸術家といったものが以前に比べ多く出てくると思われますので、それは多少期待が持てるように思います・・(笑)。

その意味でも森鴎外夏目漱石斎藤茂吉金関丈夫安部公房山田風太郎横溝正史北杜夫加賀乙彦辻邦夫手塚治虫加藤周一なだいなだなどは先駆者であったと云えるのではないでしょうか・・?

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年熊本、山陰東部そして福島県周辺において生じた大地震により被害を被った地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」






20170311 先日出席した勉強会から思ったこと・・議論、正反合、創造

A「先日久しぶりに関西に赴き、勉強会に参加させて頂きました。

そこで行われる議論とは、かつては日常的に行われていたものでしたが、現在になりあらためて思うことは『そうした場での経験を通して創造とは為されるのではないだろうか・・。』ということです。

そこで参加者各々が真摯に自分のコトバで意見を語り合い、議論の紆余曲折を経て、正反合として『新しい考え』に至るのではないでしょうか・・?

またそこから弁証法(Dialectic)と対話(Dialogue)の語源が同一ではないかと思い至るのですが、少なくとも双方に相通じる要素はあるのではないかと考えます。

一方、かつてのブログ記事に書いた通り、我が国には伝統的に『議論』という文化が乏しく、何かしらそれを乱暴な口論と見做すようなところが多分にあるのではないかと思います・・。
(我が国の場合、女性が参加することが困難、躊躇する文化、遊戯等は、それを軟化させるか排除するかの二択であると云える。)

『議論では何も変わらない』というのは、よく聞くコトバですが、それは少なくとも、自国を(文化的な意味でも)先進国と見做している国においては『如何なモノか・・?』と思われます・・。
(実は議論によって何か変えられることが怖くて仕方がないのかもしれない・・誰が・・?。)

とはいえ、たしかに我が国における議論では抽象的、観念的である場合が多い議題、論点に対する各々の考えを述べることよりも、直接的な議論参加者そのものをイジル能力が長けた人間が注目され、それが『優れた人物』と見做されるといった悲しい風土があるように思われます・・。
(それは昨今のテレビ番組をいくつか観てみればわかることではないでしょうか?
また、希望的観測によると昨今テレビがネットに押されつつある現状とは、こうした風土が見透かされてきたということかもしれません・・。)

いや、もとい、こうした風土とは、昨今の世界でのさまざま出来事を見た場合、ある程度世界共通のものとなってきているのではないかとも思われます・・。

そうしますと、現代社会とは、全般的に以前に比べ、議論そのもの自体に変化が生じているのではないかとも考えされられます

また、それは現在では概ね古本となっている時代(1960~1990年代周辺)に刊行された対談集を数冊読んで頂きますと、その意味が分かって頂けるのではないかと思います・・。

そしてそこには、昨今よく聞く『活字文化の衰頽』といった現象がある程度関与しているのではないかと思われるのです・・。

また、そうした一連の同時代の現象をより大きな視点にて捉えてみますと、時代精神といったものが透けて見えてくるのではないでしょうか?

さらにここまで書いており不図想起されたことは、かつてどこかの喫茶店で話していた折に聞いた『しばらくその人とハナシをしていると、その人が普段から本を読む人か、どういった本を読む人か、あるいはカッコつけてわざとそうしたコトバを使っているだけかが大体分かってしまうのです・・。といったことで、これには少し考えさせられました・・。

とはいえ、いや、それだからこそ、こうしたことを書き、あるいは読んでみたとしても、実際にそうした対話の経験がなければ、それはあくまでも事実を基点、核とした創造ではないことから結果としてその創造された文章とは内容のないものとなってしまうのではないかと思われるのです・・。
(であるからといって経験さえあれば内容のある文章が書けるわけでもないようですが・・(苦笑)。)

そして、それ故に苦しみ且つ楽しんで真摯に対話をすることが出来る環境をどこかである程度以上の期間持つことが大事なのではないかと思われるのです・・。

また、こうしたことはトーマス・マン著「魔の山」の一つの大きな主題ではないかと思われます。

そしてまた、社会における大学が存在する根源的な意味とは、一つにこういったところにあるのではないでしょうか?

今回もここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。

2011年の東日本大震災から6年が経過しました。この大地震および、去る2016年の熊本、山陰東部にて発生した地震により被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」