2017年6月5日月曜日

20170605 文章を作成する際のフィラー(充填材)とマトリックス(母材)帰納と演繹?

A「先日投稿のブログ記事に書きましたが、文系院時代の知人が来京し、久しぶりに一緒に食事を摂ることになりました。

この時も相変わらずに快活であり、またハナシも盛り上がりましたが、もしかすると、彼と久しぶりに話す機会を持つことによって、またラッセル著『西洋哲学史』を少しずつ読み進めることになったのかもしれません・・。

そして、過去の私がこの著作内に引いた朱線部を現在になり読んでみますと、そのうちの多くに当時自身が考えていたことの骨子となるような内容が含まれていたことが理解出来ます・・。

不思議なことに、しばらく前の私ではこうしたことは理解出来なかったように思えるのですが、これは進化であるのでしょうか、それとももっと違う何かなのでしょうか・・(笑)?

ともあれ、そのことから、おそらく当時の私とは、自身の論法のみにて研究テーマに対して推論を進めること、すなわち(ある程度論理的な)文章を書き進めることが困難であり、こうした思想、哲学系の著作から『思考モデル』を援用(借用まではあからさまでない)したのだと思われます・・。

つまり、現在になり思うことは、当時の私とは、民俗学、考古学分野などの直接参考とした文献と同程度あるいはそれ以上に、こうした思想、哲学系の著作から、その『思考モデル』を抽出していたということです・・。

あるいはこれを別言すると、当時の自身が書いたものとは、民俗学、考古学等の文献から得られた現象、遺跡、遺物などに対する知見、記録の一つ一つがそのフィラー(充填材)であり、それらを包含し一塊の考え、文章と成すマトリックス(母材)のようなものが、さきの思想、哲学系の著作から得られた『思考モデル』であると云えます。

そして、そのように考えてみますと、そこには特段新しい要素は無いことになりますが、しかし開き直るわけではありませんが、ある程度ウラの取れた確からしく、さらに新しい知見、記録のみで文章、論文を作成することは、たとえ博士課程の研究であってもなかなか難しいのではないかと思われます・・。

それよりも、ある程度確からしい既知ともいえる知見を組み合わせ文章と成し、それにより新しい考えを述べる方がまだ現実的であるのではないかと思われますが、如何でしょうか・・?

もちろん、一方において、そうした方法論に安住してしまうのも如何なものかとは考えますが、それでも、こうした手法にて文章を書いている方が少なくとも長く書き続けることは出来、また、その中で大きな発見とまでは行きませんが1%、5%、10%程度の中から新たな知見、考えらしきもの、あるいはそのヒントが誰かに見つかれば、それはそれで多少は意味があることなのではないかと考える次第です・・。

さて、今回の記事は、本来であれば、この後にコンラッドとラッセルとの関連を知った経緯を書こうと考えておりましたが、これまでの文章が思いのほか長くなってしまいましたので、それはまた後の機会に書かせて頂くことにします・・。

ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

去る2016年に熊本、山陰東部、福島県周辺にて発生した地震によって被害を被った地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そして、その後の速やかな復興を祈念しております。」



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