2016年8月29日月曜日

20160829加筆修正 「20150707 八幡宮、喜捨、放生会について」

無事に400回目の投稿も終えましたので本日はブログ記事の投稿を止めておこうかと思いましたが、そうしますと、どうも落ち着かないため、やはり記事作成をはじめました・・(苦笑)。

さて、本日も特にこれといった主題はないのですが、先日ブログ記事にて記したように現在また野上彌生子著「迷路」上巻を読んでおりますが、その中で興味深く思われた記述がありましたので下に抜粋引用します。

P.584
「なんでも、いいたい放題いってのけるところの多津枝には、自分では意識しない故郷の血にひそむ、外観の精錬された「近代」とは、まるで反対な熊襲の蕃女めいた野生が、肉感的にまで迸しる。」

おそらく多くの方々は、この記述を読み、そこから他の書籍、文献に記されている熊襲、隼人といった、かつて南九州に蟠踞した屈強な種族、そしてその様々な伝説、伝承を想起するのではないかと思います。

あるいはまた、こうした近現代における人物像から随筆家の白洲正子を想起される方もまた、いらっしゃるのではないかと思います・・。

たしか白洲正子の場合、御自身でそうした内容をどこかに記していたと記憶しております。

しかしながら、現代我が国における一般通念から考えてみますと熊襲、隼人からその野生さが示されるのは、主に男性からであり、同地、同種族の女性からは、あまりそういった印象(蕃女)を受けることは少ないと思われます・・。

むしろ、どちらかというと、一般的に九州の女性とは、上に記された印象とは反対の、芯の強い、(どちらかというと)おとなしい女性といった印象が漠然とあるのではないかと思いますが、如何でしょうか・・?

そして、こうしたことを含め、いくつかの土地に住んでみて思うことは、それぞれの土地、地域の文化風土といったものは、実際にその土地、地域にしばらく(少なくとも数年程度)住んでみないと(ある程度明瞭に)理解することは難しいのではないかということです・・(いくら文献、書籍を読んだとしても・・)。

さて、そうしたことを念頭に置き「20150707 八幡宮、喜捨、放生会について」の加筆訂正を試みます。

鹿児島市の郡元周辺に鴨池という地名があります。
文字通り、ここにはかつて鴨がすむ大きな池があったということですが現在ここにそうした池はありません。
私の知る限りにおいて、鴨池には、かつて動物園(現在はさらに南に移転した)があり、また、現在のその場所には大規模商業施設、市民球場、医療保健施設などが立地しております。

そして、この鴨池から県道20号線(市電通り)沿いに騎射場(きしゃば)を経て天文館方面にしばらく北上しますと鹿児島有数の古社の一つである荒田八幡宮に至ります。

かつて、この荒田八幡宮では、武の神である八幡神を祀る神社に相応しく流鏑馬神事が為されていましたが、おそらくその名残が、さきに出て来た(荒田八幡の)ごく近隣にある騎射場という地名となっているのではないかと思われます。

しかし他の八幡宮を含めた神社にて、流鏑馬神事が為される場所のことを騎射場と表現する例は聞いたことがありませんので、これは当地域独特の文字文化(文字による事物表現の仕方の傾向?)によるものであるのかもしれません・・。

その一方、この騎射場(きしゃば)と同じ音を持つコトバを以前聞いたことがありました。

それは琉球、沖縄における地名、苗字の喜舎場(きしゃば)
です。

さらに、この喜舎場の「喜舎」について考えてみますと、それは仏教用語の「喜捨」に起源を持つのではないかと考えられます。
この「喜捨」とは「布施」とも似ているのですが、その意味合いとは「功徳を積むために喜んで自身の財物を施す」という現代でいうところの「寄付」にあたります。

そして、この功徳という意味合いにおいて「喜捨(舎)」には宇佐八幡宮をはじめとする全国の諸八幡宮にて流鏑馬神事と同様に為される魚、鳥などを野に放つ「放生会」神事に相通じる要素があるのではないかと考えられます。

また、この八幡宮における「放生会」神事の起源とは、南九州にて朝廷に対し反乱を起こし、戦にて倒れた隼人の鎮魂の意味で当初為されたといわれております・・。

そして、そのように考えてみますと、この一連の鴨池(放生会神事により魚、鳥を野に放つ為の池)、喜舎(捨)場(功徳を施す場)、荒田八幡がごく近隣に存在すること、そしてさらに現代においても、この鴨池にかつて動物園が存在したことは、大変興味深く、この地域の文化の基層から現代に至るまで貫かれている何かしらの信仰的な観念の存在、あるいはそれらの持つ大変興味深い多義性(我が国における原初的な詩心といっても良いかもしれません・・)を示しているのではないかと考えさせられるのです。

また、そうしたことを念頭に置き、さきに抜粋引用した野上彌生子著「迷路」の一節を読んでみますと、多少またその感慨が異なってくるのではないでしょうか?

P.584
「なんでも、いいたい放題いってのけるところの多津枝には、自分では意識しない故郷の血にひそむ、外観の精錬された「近代」とは、まるで反対な熊襲の蕃女めいた野生が、肉感的にまで迸しる。」

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる四月の熊本における大地震にて被災された地域の諸インフラの早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。