2016年7月29日金曜日

20160728 数値による評価と創造性・・原理からの理解により発生する「何か」

本日も少し帰宅が遅くなり、またブログ記事の作成を躊躇しておりましたが、それでもやはり何かしら書いておかないと思い、本日分の記事を書きはじめた次第です。

また、相変わらず現在の状態においては、特にこれといった着想、アイデアがあるわけではありません・・。

そういえば、昨日投稿したブログ記事において「各々のブログ記事の面白さを決めるものは、その閲覧者数であることは、大きな間違いではないかもしれないが、同時にそれが精確な事実を言い当てているかどうかは不明である。」といったことを記しました。

そして、こうしたことは、様々なことについていえるのではないかと思われますが、同時に現在の世界規模での思想的潮流において「数値化出来る事実のみが明晰な考えとして許容できる事実である。」といった風潮が強いように思われます・・。

これは世の中全体がある意味で理系化しているということなのでしょうか・・?

しかし、同時に本当の理系学問分野のスゴイ方々からよく聞かれる意見として「あまり効果が望めない(金にならない)基礎研究にこそ、もっと力を注ぐべきだ」といったものがあります。

私はスゴイ理系の人間ではなく、そもそも理系の人間であるかどうかもかなり怪しいのではありますが(苦笑)、それでも、この意見とは、決して付和雷同あるいは知的虚栄心からでなく、あるいはまた、その背後の理屈は多少異なる可能性もありますが、自身の実感、経験に基づき賛成します。

我々日本人はかねてより、その物真似、吸収といった受容的才能に富んだ国民であると各国より評され、また、それは我々自身が認識する強い此岸性、実際的傾向と強い親和性があるものと云えます。

こうした性質とは、国全体の経済面での見通しが明るくなく、またこの先の更なる低迷もまた予測される現在および今後の状況においては、ますます増強・促進してゆくのではないかと思います・・。

その結果として、さきに述べたような実際的でない(無駄・コスパが悪い)と考えられる基礎研究などに費用を投じることは無駄なことではないかと考えるのが自然になってゆくのではないかと思われます・・。

しかしながら、これまでで一言も触れていなかったものが「創造性」です。

創造性とは、乏しい私の経験から述べさせて頂きますと、どのような分野であれ、一見無駄とも評することが出来る行為の積重ね、蓄積を通じて知覚、体得された、ある物事、事柄に対する原理からの理解により発生する「何か」ではないかと思われます・・。

そして、出来るならば、こうした創造性を持った(特に若い)人々が多くいた方が、その国における未来には好ましいのではないと思われますが、もしかすると現今の我々の状況とは、そうした若い方々を食いものにしている部分もまた少なからずあるのではないかと考えさせられます・・・・。

あたかも太平洋戦争後期、末期の我が国のように・・・。

あまり、いや決して認めたくはありませんが、もしかすると我々とは、たとえ無意識にではあったとしても、こうした傾向を精神のどこかに秘めているのではないでしょうか・・?

そして、ここまで記していますと、不図、以前抜粋引用した北杜夫著「どくとるマンボウ医局記」中央公論社刊pp.284ー294からの内容を想起しました・・・。

以下「」抜粋引用部です。

トーマス・マンは詩人を定義して、自分自身のことだけを述べてそれがそのまま全世界を述べていることになる人のことだ、という意味のことを書いているが、同じように、元来個人的な、閉ざされたものである「夢」を解きはなち、普遍性、社会性を付与したものが芸術であるといってもよいだろう。マンの名前がでたついでに、この辺で固苦しい話からはなれて、ジイドが比べるものがないと呼んだ彼の長編「魔の山」をひもどいてみることにする。

この小説の主人公ハンス・カストルプは単純な「人生の厄介息子」であり、低地から隔絶されたダヴォスの療養所にはびこる「病菌」の実験材料にすぎない。
対立した教育者たちは、この青年をそれぞれの自分の陣にひきいれようとする。
だがあるときカストルプは吹雪に迷い、雪のなかで美しくも怖ろしい夢を見た。はじめ彼の前には、明るい霧雨のヴェールの下から、深い紺青の南海があらわれる。
海浜の砂地の上では美しい太陽の子らが、楽しげに子どもっぽい、同時に品位にみちてつつましく、馬に乗ったり弓をひいたりして遊んでいる。それは見ていても胸がふくらみ温かくなるような光景だった。
だがやがてカストルプは背後の神殿で行われているむごたらしい饗宴にも気づく。
そこでは魔女のような老婆が白髪を乱し半裸体で、野蛮な落着いた様子で嬰児を裂いて食べている。
彼はもろい骨が老婆の口の中でくだける音を聞き、醜悪な唇から血がしたたるのを見た。
そこで彼は目ざめるが、それらの光景をどこかで知っているような気がする。

「僕は一体どこで見たことがあったのだろう?
誰も自分の心だけで夢を生むのじゃなくて、めいめい思い思いの見様はしても、本当は無名で共同で夢を見るのではなかろうか。
ある大きな塊があり、それが僕という一小部分を通して、僕は僕なりに、いつもその魂がひそかに夢見ている事柄を夢見るのだろう」。
そしてカストルプは人間の地位と本領を考え、はっきりと彼の「陣」をとる。
「僕は人間の地位を夢に見、また人間の礼儀正しい聡明な恭謙な社会を夢に見た。
その後ろの神殿では凄惨な血の饗宴が行われていることをひそかに考えているから、太陽の子らはあのように礼儀正しく麗しくいたわりあうのだろうか?」
「死の冒険は生のなかにあって、それがなかったら生は生でなくなるだろう。
そしてその真中、冒険と理性との中間こそ人間の位置すべき場所である。
その真中の位置にあって、人間は上品にやさしくうやうやしく自己を遇さねばならない。
なぜなら人間だけが尊いのであって、対立する考え方が尊いのではないからだ。
対立しあう考え方も人間があってこそ存在するのだ。
だから人間はどんな対立よりも尊いのだ。人間は死よりも尊く、死に耽溺するには尊すぎる。
知性の自由を持つからだ。
また人間は生よりも尊く、生に耽溺してしまうには尊すぎる。心に敬虔な気持をもつからだ。
なんだこれは詩のようだぞ。
人間についての夢の詩のようだ。僕はこれを覚えておこう」。
その通り、忘れさられたように見えたこの夢は、彼の魂の底ではずっと生きつづけていた。だから彼は「大きな無感覚」から目覚め、魔の山をくだるようになるのである。」

さて、何かしら関連性はあるのでしょうか?

ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。

そして、さる四月に発生した大地震によって被災された九州、熊本地域の早期の諸インフラの復旧そしてその後の復興を祈念しております。」