2016年5月26日木曜日

20160526 日差しと精神

テーマの重複などは多くあるかもしれませんが、とりあえず当ブログにて300記事以上投稿し続けることが出来たことは良い経験になったと思います。

今後どの程度まで記事作成を継続することになるかわかりませんが、もう少し記事作成を継続してゆきたいと考えております。


そういえば最近は首都圏においても気温が上昇し、日中は「暑い」といってもいい日もありました。

しかし暑さに関していいますと、やはり鹿児島の夏の暑さはなかなかのものであり、何といいますか日光の強さが首都圏のそれとは多少異なるのではないかと思います・・。

そして、そこで想起するのは夏目漱石著の「三四郎」に登場する、三四郎と同郷の研究者である野々宮宗八(寺田寅彦がそのモデル)が、こうした光線の強さについて研究していることに加え、同作中、冒頭部に近いところにて三四郎が汽車にて九州から北上するにつれて乗車してくる女性の肌の色が徐々に白くなってくるといった記述です・・(笑)。

これはおそらく熊本市に在住経験のある夏目漱石の多少なりとも実感を伴った描写ではないかと思われます。

一方、熊本の南隣の県に在住した経験を持つ私は、九州の方々に見られる肌の色の濃さとは、概して健康的であり、それは往時以来我々日本人の美的感覚に適うものではないかと思います。

また、もしかすると、私はその南国的ともいえる日光の下に身を置いてきたお蔭で現在こうした記事を書くことが出来ているのではないかとも割合本気で思います・・。

とはいえ、そうしたことを記述すること自体、私が多少精神に失調、変調をきたしているということに因っているのであらうか・・(苦笑)?

(しかし私の精神とは正常であると当たり前のように思っている。また、それが当然であると思っている(笑)。)

それはともかく、この日光と精神の失調との関連を匂わせているのがジョセフ・コンラッドの「闇の奥」作中にて主人公のマーロウがアフリカに旅立つ前の健康診断を受ける際に医師から「(変にならないためには)カッカしないで日光にあたらないように気をつけなさい。」という助言を受けるという記述ではないかと思います。

あるいはもしかすると、この助言とはある程度までは正しいのかもしれません・・(苦笑)。

ともあれ、以上の記述も含め、いくつかの異なる場所にしばらくの間住んでおりますと、様々なことから「自分は多少おかしい(普通ではない)のではないか?」と感じることが時折あります。
(これはおそらく経験されている方々は少なくないと思います。)

そして、それがどの程度まで「科学的な意味で」正しい見解であるのかよくわからないうちに、その場所に適応してゆくのではないでしょうか? 特に適応力に富んだ若い時分においては・・。

また、その意味において、さきに記したことを異言しますと、私が「現在」ブログ記事を作成し続けることが出来ているのは九州、鹿児島在住時に得た感覚、日常感が現在の首都圏におけるそれと合致させることが困難であるところから生じる内部応力(葛藤?)のようなものに起因しているのかもしれません(笑)。

しかし、もしかすると文章を書く、書き続ける力の根源には、観念と現実が接する文字、文章の世界における水平線、地平線が一見合致、接しているように見えながら、よくよく見ると全く合致、接していないといった状況から生じるディレンマといったようなものがあるのかもしれません・・(苦笑)。



とはいえ、ここまで興味深く記事を読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。
また、九州・熊本の大地震にて被災された地域における早期の復旧そして今後の復興を祈念しております。」







金関丈夫著 大林太良編 岩波書店刊「木馬と石牛」pp.59‐61より抜粋20160525

『日本のいわゆる金石併用時代の青銅器文化に、中国地方の中央を境界にして、東西二つの文化圏があった。東は銅鐸の文化であり、西は銅剣、銅矛の文化であるということは、今ではあまねく知られている。また出雲地方が、この西の文化圏にあったということについても、明らかな証拠がある。現に出雲大社の宝殿には、この地方から出土した銅矛の実物が蔵されている。
この二つの異なる青銅器文化圏の意義をどう考えるかということは別として、弥生式の時代に、出雲地方が北九州を中心とする一つの優勢な文化圏にあったということは、またたいへん面白いことではないかと思う。
「古事記」によると「ムナカタ」氏が祭祀したという筑前の宗像神社の祭神の一人「イチキシマヒメ」というのは、宗像三女神のうちで、後世に創らせたものであったが、この「イチキシマヒメ」の「イ」は単なる接頭音であり、「チキ」とか「ツク」とかに語源がある。
私の考えでは、この「チキ」「ツク」などという語と、筑紫の「ツク」また九州の地名に多い「ツキ」例えば秋月、古月、香月、杵築、「シキ」例えば伊敷、一色、「スキ」例えば臼杵、指宿、「チキ」例えば市来、加治木、「チカ、シキ」例えば値賀島、志賀島などとは関係があり、これらの音で表されている名を冠した一つの強力な海洋部族があったかと思う。
出雲地方へ北九州の青銅文化をもたらし、出雲の海辺の一角に定着して「杵築」の地名をのこしたのも、恐らくこの一族ではなかったか。
こんなことをいうと、大社関係の方々にしかられるかもしれないが、大社の祭神はいまはオオナムチノミコトということになっているかもしれないが、これは近世以後のことであって、古来スサノオノミコトと信ぜられていたのである。
ところがさきの宗像の三神は、天安河原でうけひをしたときに、スサノオノミコトのものざねから生まれたので「乃ち汝の子なり」とアマテラスからスサノオにおしつけられたという。すなわち宗像の三神はスサノオノミコトの子だということになっている。
この説話のおこりは、おそらく「イチキシマヒメ」の祭祀者がスサノオノミコトを祭祀する部族と接したときに生まれた、よくある妥協の思想から成立した話であろう。大社にはスサノオと共にイチキシマヒメが祭られたことがなかったとはいえないと思う。
出雲の部族が、古代においては日本海をまたにかけたたいそう発展的な海洋族を含んでいたことは、「古事記」の記事や、「風土記」の国引きの伝説からもうかがわれる。
若狭路から琵琶湖に入ったと思われる「イツクシマヒメ」も、両部思想のお陰で安芸の厳島と同様弁天様になったが、島の名の竹生には「チク」の語源をとどめている。
これらも日本海から近畿に入ったのであり、出雲族の越の国々との交通の遺物であろう。京都の出雲路というのも同方面から侵入したこの部族の故地であろう。
竹生島の「チク」は滋賀の「シカ」にも関連があろうかと思う。
出雲神話に南方説話の影響の多いことなども、私の以上の考えを支持するもののようである。
近年鰐淵村の猪目洞穴で発見された弥生式時代の貝輪などにも、南海産のテング貝で作られたものがあった。
土俗の方からいっても、中海のソリコブネのような船が南方につながることは、早くから人々に云われており、その他にも色々と面白い事実があるようだ。
佐陀神社の神事の海蛇が南海から暖流に乗ってきたものであることも、この際見逃し難い。
以上はただ旅中、不備な資料を基にした私の思いつき出会って、詳細はもっと深く考えなければならないが、請われるままに仮に発表したのである。』
新編 木馬と石牛 (岩波文庫)
ISBN-10: 4003319710
ISBN-13: 978-4003319710
金関丈夫