2016年2月15日月曜日

中島岳志編「橋川文三セレクション」岩波書店刊pp.51-55より抜粋20160215

西南戦争についての一般の歴史的評価はここでくりかえさない。要するにそれは維新後における封建反動の極北を意味する大動乱であり、その終熄によって、初めて一切の封建復
の可能性がその根を断たれたものとされている。
このような解釈について、私は特別な異議申し立てようとは思わない。
後述のように北一輝でさえ、それと同じ意味をこの内乱に認めている。遠山茂樹氏によれば、ここにおいて「明治維新の主体勢力であった倒幕派の政治的生命が終末し」し、明治の「絶対主義」が不動の基礎の上に打ちたてられることになるし、また井上清氏によれば、この乱における西郷の立場は、以下のように要約されることになる。
西郷隆盛個人は、反動ではなく、ブルジョア的改革の必要もよく承知していた。
しかし彼は、多年生死をともにし、その力に頼って幕府を倒した士族大衆を、いまになって見すてることは絶対にできなかった。彼は叛乱が成功するとは思っていなかったであろう。しかもあえてじぶんの生命を彼をしたう士族大衆に与えたのである。
大西郷の徳望と薩摩士族の勇猛を以ってしても、歴史の進歩にさからうものは、ほろび去るほかなかった。」
(「日本の歴史」中)
遠山氏のような見方が多分もっともオーソドックスな見解であり、西郷はそのまま倒幕派士族大衆の封建反動を象徴する人物と等置されることになる。

井上氏の見解は士族大衆の封建反動という歴史的カテゴリイと、西郷個人とを切りはなしているところに微妙な含みが見られるが、その西郷個人についての見解がまだ井上氏からは述べられていないために、事情がやや曖昧である。

率直に私の感想を述べるならば、歴史学者としての井上氏の立場からすれば、西南戦争は到底、「歴史の進歩にさからう」反動以外のものではありえず、そのシンボルとしての西郷もまた、歴史的人間として見るかぎり、たんに亡び去るにふさわしい過去の人物というほかはないはずであった。

にもかかわらず、井上氏は、人間としての西郷に(ちょうどノーマンの嫌悪感とは逆に)、なんらかの愛着を禁じえないのではないだろうか。
もしそうであるとすれば、私はいっそう井上氏の西郷論を聞きたいものと思う。
それはともあれ、私の個人的な記憶をたどって見ると、西南戦争のイメージが私の中で大きく変わった契機が、やはり遠山氏の「明治維新」によってであった。
つまり、それまでこの内乱のイメージは、錦画風の英雄挫折物語としてしか私の中にはなかったのだが、それがはじめて学問的な照明の下に浮び上がってきたという意味である。
しかし、それだけではない。私がとくに遠山氏の著をあげたのは、実はその歴史分析の講座派的なみごとさに感心したというよりも、その西南戦争の記述の中に、私は呆然とさせるような小さなエピソードが挿まれていたからである。
そしてそれが私の中の西南戦争のイメージときりはなせないものとなっているということがある。同書三三三頁に次のような箇所がある-
(「此時に当り、反するも誅せらる」との窮地に追い込まれた西郷は、ついに二月、逸る部下に擁されて挙兵した。
西郷起つの報は、自由民権派に大きなショックを与えた。熊本民権派は、ルソー民約論を泣き読みつつ、剣を取って薩軍に投じた。)(傍点、引用者)
この傍点部分今なお私を考えさせる。

もちろん、西南戦争に流入したエネルギーの多様さと雑多さということを私もまた知らないわけではない。
 にもかかわらず、この内乱がルソーの名と結びつく意味をもったということは、いくらそこから非本質的な要素をとりのぞいたとしても、やはり私には刺激的なことがらであった。
宮崎八郎の思想と経歴については、荒木精之の評伝「宮崎八郎」、この評伝を連載した「祖国」の宮崎兄弟特集号(昭和二十九年五月号)などのほか、私は知るところが少ないが、ここでは宮崎八郎その人が問題ではない。

先にも言ったように、一般に最後の封建反動とされる西南戦争が、その参加者のあるものにおいては、ルソーの名において戦われたということをどう考えるというのが私の問題である。この事実を、事実として例外的な些事にすぎない、もしくは単純なナンセンスにすぎないとして無視するならば話はかんたんである。
事実、当時の青年たちが、ミルにしろ、スペンサーにしろ、どんなに自己流に読んでいたかは知れたものではないと疑うとしても、そこには、幾分の理由がなくもないからである。しかし、もしそうでなかったとしたらどうなるか?
宮崎八郎に限らず、民権派の青年で西南戦争に参加したものたちこそ、ルソーを正当に読んだとしたならどういうことになるか?
ISBN-10: 4006002572
ISBN-13: 978-4006002572

『正調 田原坂』