2016年2月12日金曜日

20160212 作成したブログについて

A「最近はまた自作の対話形式の記事が続いていますが、Bさんはブログ記事のネタに行き詰るようなことはありますか?」

B「・・ええ、行き詰まり感は始終感じながら記事を書いております・・(苦笑)
ただ、そういった時は、その時の心情を書いておりますと、徐々に行き詰まり感が解消されてゆき、まあ何とかネタらしきものが見えてくる、浮き上がってくるといった感じが多いようです・・。
とはいえ、そのようにして生み出された記事が閲覧者数を集めやすいか、そうでないかとは、また別問題のようです・・(苦笑)。」

A「・・はあ、そうすると、苦労して書いたにも係らず、多くの閲覧者を得られないこと、あるいはその逆もあるということですか?」

B「ええ、大体そのようなところです。
ですから、ブログの記事を含め、文章とは、絵画や釣りと同様、とりあえず始めてみないとわからないものではないかと思います。
とはいえ、苦労の多寡に係らず、投稿した記事が多くの閲覧者数を得ることはなかなかうれしいものです。
そして、そのことにより私はこれまで継続して記事を作成することができたと思っています・・。
そうしますと、創造の際において必要な能動性とは、あくまでも第一義的に重要ではありますが、同時に創造されたものを発信した後の反応、リアクションによっても、その後の能動性とは、ある程度変化するものではないかと思うようになりました・・。
こうしたことはリゴリスティックに考えれば堕落であるのかもしれませんが、実際問題、こうしたこと(発信の反応による自身の鼓舞)がなければ、これまでの記事作成を継続することができませんでした。
その意味において私は弱い人間であることを認めます。
また、一方において、生前はあまり評価されず、死後に大きく評価されるようになった創造者の方々も大勢おりますので、そうした方々の周囲の反応などは意に介さない創造に対する意欲、熱意とは、その源泉が如何なるものであったとしても、偉大なものであったと思います・・。
その点、私などの場合、ブログ開設当初は閲覧者数が伸び悩む時期があり、記事の作成を疎ましく思うことが多くありましたが「ここでブログの更新を止めたら後で後悔し、また私にブログの作成を勧めてくれた方々に対しても悪い。」と思い、断続的であったかもしれませんが、どうにか続けることができた次第です・・。」

A「・・はあ、なるほど、そんなことがあったのですか。
ブログなどの場合、閲覧者数が伸び悩むと、やはり能動性、記事を書く気が削がれるものなのですか?」

B「ええ、正直そうですね。
閲覧者がいないで投稿するということは、何といいますか、壁に話しかけているような、何ともいえないやるせない気分になるものです・・(苦笑)
また、それに加えて、ブログによる発信とは、論文や学会誌などと異なり、誰かしら類似の研究をしている方々に読んでいただけるというわけではありませんので、何といいますか、より根源的な自身の価値を判断されてしまうのではないかというおそれもあるのではないでしょうか?
そして、そうしたおそれが実際にあったことから、周囲の方々から勧められるまで、はじめようとしなかったのではないかと思います・・(苦笑)。」

A「そうしますとBさんはブログ作成をすすめてくださった方々に感謝しなければなりませんね()。」

B「まあ、たしかにそうですが、それでも今後私のブログがどうなるかわかりませんので、とりあえずは感謝の念を抱きつつ、何かしら書き続けることが今の段階においては重要なのではないかと思います・・。
ですから、とりあえず当面は自身の作成記事数を100にすることを目標にします。
そのあとは全体の記事数に対する自身の作成した記事の割合を半分(50%)にすることでしょうか・・。」

A「まあ、自身の作成する記事にこだわるのもいいですが、一方において書籍の抜粋記事もなかなか面白いのがありますよ・・。
ああいったものを読んでも、その抜粋者の書籍、文章に対するセンス、感性らしきものは伝わってくるとも思いますので、それはそれで続けてみてはどうですか?」

B「ええ、残念ながら多くの閲覧者数を得るのは書籍からの抜粋が多いので、それはおっしゃるとおりであると思います・・(苦笑)
しかし、これは私の実体験から得た教訓なのですが、書籍の抜粋を続けていると自身の文章が書けなくなるのです・・。
あるいはまた、大御所、ビッグ・ネームの著作抜粋とは、いかにも権威主義的であり、また抜粋の後、自身の記事を作成する時に否応無く比較してしまい、その出来の浅薄さにどうもいたたまれなくなるのです・・(苦笑)
まあ、こうした理由により出来るだけ自身の作成記事を投稿しようと考えているわけですが、それでも書籍からの抜粋は今後も併行して続けるつもりです・・。
これは閲覧者の増加を望む心情からというよりも「こんな面白いことが書いてある書籍があるのだ!」ということを示したいがためと、お考えいただけたらありがたいです()。」

A「・・なるほど、それはわかりました。
それはそうと、最近のBさんの作成した記事で多くの閲覧者数を得ているのはどれですか?」

B「ううむ・・それは20160207の「真田丸」を題材にした記事でしょうか・・?
あの記事は既に閲覧者数が100以上となりました。
この閲覧者数は周辺日時に投稿した他の記事に比べ、数倍の数です。
そして、自分なりにその理由を考えてみますと、歴史的な小ネタが多く、且つ何といいますか、話のオチがそこそこ整っているからではないかと思います。」

A「ああ、たしかにBさんの作成する記事には歴史などの小ネタをはさんだものが多いですね・・それでああいった記事が受けるのですか?」

B「さあ、それはよくわかりませんし、ああいった歴史などの小ネタを入れて実際に広く対話できたのは、それこそ文系院時代の議論だけであり、それ以外の場所では衒学的だとか、堅苦しいとか、文系は理屈っぽい・・などといった反応がほとんどでした・・(苦笑)
とはいえ、そうした用語を用いた会話を文章にすると受けるというのはなかなか面白い現象であるかもしれません・・。
加えて、文系院での議論とは、そういった小ネタの使い方で、相手の思考、こころざしの方の志向、知識レベルなどが明らかになるといった傾向がありますので、当初の議論においては、用いている用語、専門用語の意味などを突っ込まれることが多くありました。
そして口惜しい思いをして後で図書館、書店などで色々と調べたりしたものです・・(苦笑)。
しかし、ああいった切磋琢磨のようなものがなければ、現在書いているようなブログの記事は書けていないと思います・・。
そして、そうした状況を対話形式の文章にするといった行為には、もしかしたら少なからず負の側面もあるのかもしれません・・。
まあ、単なる自意識過剰であるとは思いますが・・()。」

A「うん、帰納論的な発想をすることが多い文系学問分野においては、特にそうした個々の用語の意味の認識は大事であり、加えて「神は細部に宿る」などともいいますから、たしかにその意味はよくわかります・・。
そして、そのように考えますと、現在の何というか言語ばかりが躍っている、この状況とは、昭和初期の日本浪漫派が流行していた頃を彷彿とさせますね・・。
また、これからの社会では英語が大事であるというのはわかりますが、それも何だか現在のところ空回りしているような感があります。
こういったものは今後どうなってゆくのでしょうかね?」

B「・・さあ、どうなるのでしょうか・・?
しかし日本社会においては定期的にそうしたブームが起きているのではないでしょうか?
そして、その先にあたるのが現在の社会ですので、それを漸進的な進化の結果であると見るのか、あるいは双方共に同じ軌道を描いている一つのパターンと見るかで変わってくると思います。
願わくは前者であることを望みますが、残念ながら現在の私では、これらの現象が、その何れであるかは判然としません・・。」

A「ええ、言語が躍るのであれば、それに対応する意味もまた同時に躍ってくれないと、それは一過性の空虚な言葉遊びに終ってしまうのではないかと思います・・。」

B「ええ、それは今後の私の作成するブログ記事に対する戒めとさせていただきます・・()。」