2016年2月5日金曜日

竹山道雄著「昭和の精神史」講談社刊pp.275-279より抜粋20160205

罪ある日本人の一人として、面に唾されながら、私はひそかに呟く。-「いかにも自分には罪がある。しかし、ほかならぬ同胞からこれほどまでに嘲られるおぼえはない」
戦争とそれが生んださまざまな痴愚悲惨は、すべてわれわれが呪うべき国民性をもった日本人であるという不幸な烙印をおされているためである、-こういう断定をきくごとに私はいいがたいいらだたしさを感じる。
そして、誰か専門家が私の疑念に答えて、私のいいたくていえないでいることを事実をあげ歴史をたどって解明してくれるといいが、と思うのである。
しかし、専門家ほど右のような断定をする。
しかたがないから、私は自分がひとりで呟く言葉を記そうと思う。
われわれは真に恥ずべき思い出を持っている。
それはじつに奇怪なものだった。ある群棲動物はときどき不明の原因から集団ヒステリーにおちいり、その天賦の賢さをことごとく失ってしまって、野を馳けり海に泳ぎ入って、ついには大量自殺におわる。ということである。ことによったら人間の社会にもこういうことがおこるのだろうか。
すくなくとも、われわれは体験したが、社会の集団的妄想は一たびうごきだすと、あとはもう力を増すばかりで、とどめることができなくなってしまう。それは、伝染力のあるヒステリーのごときものとなる。
戦局がおしつまってから小磯内閣が成立したが、首相のラジオ放送はこんなものだった。
「・・・天皇陛下は宇宙絶対の神に在しますことはいまさら申すまでもなく・・この信念に立脚して億兆一心総力を発揮するとき、その結果は宇宙を貫く絶対力となってあらわれ・・ここに人類最高の道義は確立せられ、戦勝に必要なる物量も天佑神助とあいまっておのずから獲得せられ・・」
いまこの悪夢からさめて、日本人の霊感は自己否定である。悔恨ということには自己の維持と尊重があるが、それをする気にもならない。むしろ、否定し、疎隔し、嘲り罵って、一種の快を味わうにしくはない。
それは自己嫌悪よりもむしろ他人嫌悪にちかい。ほとんどすべての主張の根拠となっているものに日本人劣等説があり、これが一切に解決をあたえている。
会話の際にも口ぐせのように、「どうもこの日本人という奴は-」といっている人がたくさんある。新聞雑誌の時評欄はみなこの霊感によっている。
そこには一つの定型がある。
世の中にはいつもそのときそのときの思考の公式があるらしく、それらは形がちがっても共通して倨傲だが、いまのそれは次のようなものである。
われわれのもっているたくさんの欠点の一つをとらえて、それに外国の姿を対比させる。
外国はアメリカでもあり、ヨーロッパでもあり、ロシアでもあるが、いずれも道徳的に完成された自覚ある近代人の理想社会といったようなものである。
これに比して、われらの人間性は何と恥ずべくいやしむべきものであろう-、というのである。そして、それは社会の後進性に由来する。
たとえばこんなふうである。
-婦人専用車にのるのをいやがる女がたくさんいる。
女ばかりの中にはいると、四方から嫉妬敵意の目がそそがれるからである。
自分は某国の某広場で式典に参加したが、あつまった人々は新興社会の同志愛に燃えて、他人の服装なんか気にしていなかった。日本の女がひさしきにわたった隷属的地位のためにもつようになった、あのいまわしい性癖などは、誰ももってはいなかった。
この日本人蔑視は、それを説く日本人の自己顕揚をともなっている。
説者はしらずしらずのうちにある抽象的な超国籍的な高い境地に入り、しばらくのあいだ日本人たるの屈辱的境地を脱れでて、一種の人間的昂揚を味わうことができる。
そこにはおおむね、ロマンチックな人を見下す姿勢がある。それで、いまの日本人のインフェリオリティ・コンプレックスは、じつはかくれたシュペリオリティ・コンプレックスなのではないか、と思うことがよくある。
こういう人は高い境地に入って、その一員となって、こころよい夢にふける。
彼が属するその世界では、人間性自体のもつ欠陥というものはもはやない。
人間性の欠陥はことごとく日本人であるが故の制約である。およそ、すべての国には長所もあり、それぞれの国民はそれぞれの欠陥にくるしんでいる。
しかもその多くのものが共通のくるしみである、ということは容認されない。
そういうリアリスティックな考え方は神聖な幻を冒涜するものであり、この幻がなくなったら説者の誇らしい精神の支柱はなくなる。
この性癖も、ある人間的に普遍的な傾向になっているものと思われる。多くの国民にある程度まではおなじことがある。ヴントの「諸国民とその哲学」につぎのようなことが書いてある。-このドイツ的性格の欠点と弱点は、二重の意味で国民的悪徳である。それは第一に他の民族よりもドイツ人に独特であり、第二に国民それ自体を害う。この欠点とは、外国人の盲目的な模倣であり、みずからに独自なるものの否認である。・・単に異国的なるが故に盲目的に模倣し、単に模範に似ていないというので絶対的に排撃する奴隷根性は、品位をきずつける。・・しかも、他国に移住するドイツ人が他の文化民族よりもはるかにはやく自己の国民性を喪失するという、あの大きな禍・・。云々。(この最後のことは、日本人の場合にはないことで、海外の日本人はむしろ頑固に個性をまもるというが。)
日本文化をどれほど遡っても外国崇拝のあとのない時期はない、ということである。
その主な原因の一つは、地理的にあるような気がする。
一日汽車にのればいくつもの国境をすぎるあの狭いヨーロッパですら、一般の人々は他国のことを知らず、むかしからの伝統的な幻のごときものを持って対している。
それはおどろくほどである。
日本人は外国人と切実な接触をしたことはなく、つたえられたものは外国のいいものばかりだった。しかも、人間はつねに現実に対しては不満であり、現在以外の過去か未来に黄金時代を設定したがる。日本人がたしかに偉大な未知の外国を理想化考えるのも、むりではない。
そしてまた、外国を見てきた人は、おおむね彼が外国に行く前にいだいていた観念をそのままもってかえれるのだし、リアルな世界を見てきたといったのでは自慢にはならず、自分がより立派な世界の一員であったとするほど彼自身の経歴もたかまる。しかも、大抵の日本人は彼地にいたあいだは日本にいるあいだの生活苦からは解放されて、かれらの生涯の最良の年を送ったのである。

昭和の精神史
ISBN-10: 4061586963
ISBN-13: 978-4061586963
竹山道雄