2016年11月12日土曜日

20161112 記憶の最大公約数化 歴史感覚 時代精神について・・★★★

A「本日作成、投稿する記事により総投稿記事数が476となり、直近の一区切りであった450記事から25記事以上の投稿となり、500記事到達までの半分以上に至ります。

今後もスムーズに500記事到達に至るまで記事作成を継続出来ればと考えております・・。

さて、先日より読んでおります「楡家の人びと」は第三部を読みはじめ、現在200頁近くにまで至りました。

第三部になりますと、太平洋戦争の戦況も悪化の一途を辿り、主要登場人物が亡くなる、怪我を負うといった陰鬱な気持ちにさせるような描写が多くなってきますが、こうしたことは、おそらく我々日本人の多くが、同様、類似したものを、その父祖の記憶として持っている、知っているのではないかと思われます・・。

また、この著作に関しては、その著者が首都圏の御出身であることによってか、自身がかつて祖父母および親戚から伺った太平洋戦争での記憶と類似、重なる部分が幾つかありました・・。

その一方において、そうした記憶とは、地域、地方によっても幾分か最大公約数化出来る傾向らしきものがあるのではないかと考えさせられます・・。

無論、一つ一つの記憶もまた、それ自体で大切なものであるとは考えますが・・。

とはいえ、その地域、地方において最大公約数化出来るような歴史の流れにおける傾向・特徴を認識することもまた「歴史」認識においては重要であり、そこから認識される観念、感覚といったものが、様々な歴史を題材とした映画、物語などの大切な軸となっていくのではないかと考えます。

また、それと同時にそうした観念、感覚とは、学問としての「歴史」とも深く関連するのでしょうが、それは歴史感覚、時代精神の一つの側面から見た異名ではないかとも考えられます・・。

そして、そのように考えてみますと、我が国とは、かつて(少し前・10~20年前迄)は、そうした感覚を比較的明晰に保持されている方々が各界におられ、またそれらの方々が社会に対し一定の影響力を有していたのですが、現今の我が国社会とは、そうした存在を、あまり見受けることが出来ないのではないかと思われます・・。

さらに、こうした状況とは、世界各国においてもまた、同様の傾向を示しているのではないかとも考えさせられるのです・・。

そして、こうした様々なレベル、規模における世代間価値観(歴史感覚、時代精神)の共有が為されず歴史が進展していきますと、そこから様々な波風、軋轢が生じるのではないかとも考えさせられます・・。

とはいえ、こうしたことは『おそらくこれまでの歴史上幾度も繰り広げられてきた一つの現象ではあるまいか、それ故、特に現在こうしたことを悲観してもどうにもならないのではないか・・?』
とも考えさせられますが、しかし、そこで達観を装い、あるいは波風の立たぬよう、見て見ぬふりをし、言語として表現、何かしらのカタチで発信をしないこともまた、如何なものかと考えますので、本日のブログ記事は、こうしたことを題材として記すに至りました・・。

さて、これを読んで頂いている皆様はどのように考えますでしょうか・・?

ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、そうもありがとうございます。

先日の博多での道路陥没事故の早期の復旧、そして、さる熊本、山陰東部における大地震にて被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」

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