2016年11月3日木曜日

20161103 北杜夫著「楡家の人びと」を読み始めました。

先日より次に読んでみたい著作として挙げていました北杜夫著「楡家の人びと」上巻を購入し読んでおりましたが、大変面白く既に200頁過ぎまで進みました。

この長編小説は以前読みました野上彌生子著「迷路」に比べ、その文体が割合軽く、あまり疲れず自然に読むことが出来ていると思われます。

また、時代背景としては「迷路」とほぼ同じではありますが、その書き出しは多少「楡家の人びと」の方が古いといえます。

加えて、共通する要素としては、双方著作の主要人物として地方を地盤にする代議士が登場することであり、そこを基軸として描かれている部分、章とは、戦前の政界の実態を知る上でなかなか参考になるのではないかと思われますが、同時に、果たして戦後の政界も、その当時(戦前)と基本的にはあまり大きく変化していないのではないだろうか・・?とも、こうしたことに関しては門外漢ながらも考えさせられます。

そしてまた、これら著作の時代背景と同時代に幼少期を過ごしたともいえる加藤周一の著作「羊の歌」もまた「楡家の人びと」を読んでおりますと、何故か思い起こされます。

これに関しては、主要な舞台となる地域が近いということもまたあるのかもしれません・・。

とはいえ、こうした著作とは、我が国の近現代史を知る上において実に有益であると同時に文学作品として優れている(考えさせられることが多い)のではないかと思われます。

もし興味を持たれた方々は是非読んでみてください。

しかし一方、何故であるかその理由はよくわかりませんが、特に現今の我が国において、良いものとして取り上げられる著作、映画化される著作、作品とは、こうした歴史の流れを故意に省いた、あるいは曲解に近い解釈が為されたものであることが多いように思われるのです・・(私は歴史の日本近現代史の専門家ではないが、それに関しての著作などは人並みには読んでいると考えます。)。

それ故、時折「今後、こうした実際の歴史の流れを(上手く)描いた著作が我が国において生み出されることはあるのだろうか?」と考えてしまうことがあります。

また、そうした著作が今後現れるのは、近い将来、これまでの何といいますか、ウソにまみれた、インチキくさいパラダイム、時代精神が終焉を迎えた後ではないだろうかと思われるのです・・。

一言にて述べますと、おそらく現代とは、これまで情報産業(新聞、出版、映画会社等)が様々な手練手管を以て、押さえつけていた国民の好奇心、創造性がインターネットといった新たな情報入手手段により、既存のそれら(情報産業)が発していたものが、決して時代精神を精確に反映しておらず、むしろ、その「ねつ造」により(自己および協力、出資者の)利益の誘導を行っていたことが広く理解されつつあることにより、不信感を高め、そのどうしようもなさに嫌気がさしつつあるといったところではないかと思われるのです・・。

しかし、そうであるからといって、その次に訪れるパラダイム、時代精神が現今のそれよりも上等なものであるとは決して言い切れず、あるいはむしろその劣化をも招き得るのかもしれませんが・・(苦笑)。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。


さる4月の熊本での大地震、昨今の山陰東部における大地震によって被災された地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。

0 件のコメント:

コメントを投稿