2016年7月5日火曜日

20160705 着想と記述形式について

昨日記したブログ記事を現在読んでみますと、その着想とは、なかなか面白いものの、その記述形式においては疲労のためか、稚拙な部分が多く見受けられたように思います。

とはいえ、それを記した私としては、その着想は理解できることから、ここで不図「こうした文章といったものは、その着想と記述形式何れが重要であるのか?」と考えるに至りました。

「文章を記す際に日常的に生じる、こうした疑問とは、案外奥が深いのかもしれません・・。」

また、こうした疑問とは、記された文章に対する認識の仕方により生じることが多いのではないでしょうか?

記された文章に対する認識の際、その着想あるいは論理形式、論拠の実証性に「より」重点を置いた代表的なものとして論文などが挙げられます。

それに対し、論理形式、論拠の実証性などよりも、押韻あるいは音声として読んだ際の読み易さ、音の美しさなどに「より」重点を置いたものとして詩あるいは音読を前提とした「ものがたり」などが挙げられるのではないかと思います。

こうした要素(実証性、論理性と押韻、音の美しさ)とは、時代、時代において、それぞれ特徴、あるいは特有の関係性があるようであり、また、同時に文章を記す際の主体のスタンスなどによっても変化するようです。

また、以前の研究分野にいた際、ヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」に興味を持ち、能動的に読んでいたのは、おそらく当時必要に迫られ、日常的に読んでいた文献、研究分野の論文による影響が大きかったのではないかと思います・・。

こうした文献をある程度読んでおりますと、記されたコトバ、言語を交通標識の如く、何かの意味を象徴する記号のようなものとして認識、思考してゆく傾向があるのではないかと思います・・。

その意味において、特に、ある程度自身の専攻分野における論文等を読んでいると認識される方々は、さきに挙げたヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」を読まれてみると面白いのではないかと思います・・。

私の場合、この著作の読後、何だかよく分からない重苦しい感覚におそわれたことを思い出します・・(苦笑)。

おそらくそれは著者に対し「確かに仰る通りなのですが、コトバ、言語とは決して「それだけではない」と思うのでですが・・?」といった反対意見を述べたくなるような、あるいは、何といいますか「論理の牢獄に投げ込まれたような重苦しさ」ではないかと思います・・・(苦笑)

しかし、その一方、不明瞭であり、主要な論点、論拠が見えない詩的なものの良さとは、未だに理解できませんので、その結果、お茶を濁すように「論理的、詩的双方の文章においても、それらがつながる結節点といったものがあるのではないだろうか・・?そして、私は私なりの泥縄的な方法によって、その結節点を見出してゆきたいです・・。」
といったことを述べるに至るのではないかと思います・・(苦笑)。

そして、ここまで記していて、不図、以前抜粋したロバート・グレーヴス著「この私、クラウディウス」の部分を想起しましたが、もしかするとこうした疑問とは、ある程度普遍的なものであるのかもしれません・・(笑)。

ここまで興味を持って、読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。

また、さる四月の熊本での大地震によって被災された地域の生活諸インフラの復旧そしてその後の復興を祈念しております。




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