2016年6月29日水曜日

谷川健一編「地名の話」平凡社刊pp.195‐198より抜粋 20160629 

A「先日来より理由はわかりませんが、西欧の方々の閲覧者が増加しております・・。
もしかしたら「英国のEU離脱の報が影響しているのでは・・?」などとも考えてみましたが、ともかくその関連性がイマイチよくわかりません・・。
とはいえ、興味を持ち閲覧してくださる方々が増えることは、記事を作成している私にとっては大変ありがたいことですので、あまり奇をてらわずに何かしら書き続けてゆこうと思います。
また、おかげさまで全体の閲覧者数は95000人を超え、このままのペースで行けば、もうじき100000人に到達するのではないかと思われます・・。
ブログをはじめてから1年1カ月あまりで100000人に到達するのは決して早い方ではないようですが、それでもこれは、どうにか継続して記事を作成してきたおかげであると思っています。
そういえば、先日のブログにて記した地名「ウスキ」について記された面白い記述を見つけましたので以下に抜粋引用します。」


「谷川 中野さんは「八幡信仰史の研究」のなかで、宇佐氏とか大神氏とか辛島氏など宇佐八幡の神職の家のことを書いておられますね。その中の大神という名前は大和三輪山の祭祀氏族である大神氏から出たといわれていますが、宇佐八幡の「託宣集」を見ますと、まず辛国の宇豆高島に降臨した八幡神が、次に大和国の膽吹嶺に移ったと書かれています。この膽吹嶺は大和にみつからないのですが、「和名抄」にある大和宇陀郡の伊福郷のことだろうと先生はお考えのようですね。

中野 私は宇陀郡をつぶさに歩いてまいりました。

谷川 私は前から伊福という地名に関心をもっているのですが、「和名抄」にのっている六ケ所の伊福という地名のうち、四カ所が銅鐸出土地なんです。そこで、古代の伊福部という氏族はおそらく鋳銅に関係をもったのじゃないか、と推測をたてましてね。伊福の福は真金吹くとか銅を吹くとかの吹くに相当して、金属を精錬する時に使用するふいごに関係のある語だと思うのです。
それで大和国の膽吹嶺を宇陀郡の伊福郷(現在の大宇陀町)に比定され、またそのとなりの菟田野町の大神という部落を、宇佐に関係のある大神氏の出身地と考えられる中野先生の御説にたいそう関心をもったわけです。じつは大神部落と目と鼻のところにある大沢とか松井という部落には水銀鉱山があり、戦後も採掘していたのですね。現在は採集をやめているようですが、そこで宇佐の八幡神がいったん大和の膽吹嶺に飛んで、また最後は宇佐に帰っていったという伝承も意味深長で、銅とか水銀とかに関係のある技術集団を、大神氏が伴って宇佐にやってきたのか、あるいは大神氏自身がそうした技術をもっていたのか、いろいろと想像してみたくなるのですね。
ところで「託宣集」にもどりますが、いったん大和の膽吹嶺に移った神は、こんどは紀伊国の名草浜に移る、とあります。紀の川下流一体が名草ですね。日前宮のある付近。

中野 そうです。紀伊国と国東・宇佐との往復は極めてはげしかったようです。

谷川 ところで私は昨年国東半島を一周してふしぎに思ったのは、キという言葉のつく地名の多いことです。ざっと見ても堅来・櫛木・岐部・富来・来浦・安岐・杵築など。

中野 ここは古い豪族の育った所で、その姓は紀伊国の紀氏が非常に多いのです。

谷川 それはどういうわけでしょう。

中野 まだはっきりわかりませんが、石清水八幡宮別当紀氏の関係かと考えましたが、もっと前からだと思われる点もあります。とにかく紀氏は紀伊国がもっとも多く、大和・和泉・河内を主とし、山城・美濃などに広がり、紀部になると中国・四国に広がっている。こういうようにみると、海上交通の関係から宇佐・国東にも入ったと思われます。

谷川 「神功紀」に紀直の祖豊耳というのも出てまいりますね。紀氏とトヨが出てくるものでへんな感じがしたことがあります。

中野 国東の古い豪族はほとんど紀氏で、後の八幡宮に所属しているのが多いのです。

谷川 その紀氏は紀州に起源をもっている?

中野 分布からみてもそうだと思います。

谷川 数年前に徳島県南部の海岸を高知県境までたどってみたことがありますが、あそこもキのつく部落が多い。牟岐・木岐・志和岐・由岐というふうに点在しています。今の阿南市の富岡もまえは牛岐といったそうです。この岐の字のつく地名は、海士のばあいも海女のばあいもありますが、例外なく海人部落なんですね。高知県に入りましても、佐喜浜という海女部落だったところがあります。ところで阿波徳島の吉野川の南は昔は長の国と呼ばれて、瀬戸内海における安曇の海人の根拠地だったところですので、この岐の字のつく海人部落も安曇氏と関係があるかな、と考えたことがあるのです。そこで最初おっしゃった豊前・豊後の安曇氏と海部の関係のことが気になるのですが・・・。」

2016年6月28日火曜日

20160628 刺激と息抜きおよび思想について・・

A「先日久しぶりに頁を開いた人文社会科学系の書籍(岩波文庫)を多少読んでみたところ、また多少自分なりに書いてみたいことが出てきました。

そういえば、そのような何か書籍を読んでみたことにより、何かしら文章を自分で書きたくなるといった経験とは以前にもありました・・。

現在ほど、そうした「思い」が明確化はされないものの、確かにそういった経験はあると思いますがこれを読んでいる皆様は如何お考えでしょうか?

また、本質的には、こうした心の動きを制度化したものが、論文ではないかと思います。

しかしながら、人によっては論文をはじめ自分の文章を書くことが、どちらかというと苦痛であると考える方々も少なからずいらっしゃるかもしれません・・。

そうした時には、現在自分の書かなければならない主題と関係のない分野の書籍を読み、そこからの着想を何かしら遊び半分で書いてみるというのも悪くはないのかもしれません・・。

さて、ここまで書いていて不図思い出すことは、研究分野での文章を何かしら書く際、それに多少煮詰まるとオーパーツ関連の書籍を好んで読んでいたことです・・(笑)。

オーパーツなどは非科学的であると思われるマジメな方々も少なからずいらっしゃるかもしれませんが、それらの中にただ一つでも、歴史的事実に裏付けられたものがあるとすれば、それはそれで価値があるのではないでしょうか・・(笑)?

また、そこからは多少マジメ(?)になりますが、私の場合、同様に煮詰まった場合、もう一つの傾向として、当時の研究分野とは全く関係のない分野での比較的マジメな書籍、論文などを読むことでした・・。

とはいえ、こうした傾向とは現在自身の表向きの専攻分野がない状態においては、比較的並列的であり、あまり「これが本職のもの、これが余技、趣味のもの・・」といった区別が為されていないように思います・・。

こうしたことは、見方によれば悲しいものであるのかもしれませんが、それと同時に、この先将来、どのようなカタチであるかは分かりませんが、何かしら役に立つこともあるのではないかと考えさせられます・・。

また、これまで作成している一連のブログ記事も同様に、そうした自分本位の(学問的)興味によって継続されているのではないかと思います。

無論、その一方で、それを読んでくださっている方々がいらっしゃるからでもありますが。

そして、そういったところでハナシはまた振出しに戻ってきました・・(笑)。
しかし、結局のところ、この話の振出しから、現在の一行前(上)までが、ここで述べたい内容であるのかもしれません。

そして結句、これまでに作成した一連のブログ記事とは、そうした要素が(不整形に)連続して積み重なったものであるかもしれません・・。

おそらく、これらを通読してみても、何かしら明確な思想らしきものは見えてこないのではないかと思います・・(苦笑)。

しかし、それと同時に、明確且つ均整のとれた思想あるいは観念の連合のみが正しいというわけではないとも思いますが如何でしょうか?

いや、むしろ明確且つ均整のとれた思想あるいは観念の連合のみが良いとされる考え、価値観こそ、人間そのものを裏切るようなものではないでしょうか? 

ともあれ、ここまで読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。
また、九州南部にて大雨が降ったと聞き及びます。
どうぞ御無事で、また、この大雨により、さる四月の大地震によって被災された地域での復旧活動に支障が生ぜず、さらにその後の復興が速やかに為されることを祈念します。」





2016年6月27日月曜日

20160627 340記事到達 学問分野における才能のピーク・・?

今回の記事投稿により作成、投稿した記事数が340になります・・。300記事からこの340記事までは、何故であるか分かりませんが、とても早く感じました。

このような感じで365記事まで到達したいところではありますが、さて、今後どのようなことが生じるかもよくわかりませんので、まあ、引き続き、肩の力を抜いて、一つ一つの記事を作成してゆこうと考えております。

そういえば、先日、数年前に購入した書籍を読んでいますと、そこに記されている内容が、これまた何故であるかわかりませんが、大変新鮮に感じられ、その書籍を購入した以前の自分とは、もしかすると現在の私よりも優れていたのではないかと考えさせられました・・(笑)。

そのように考えてみますと、何であれ知識、学識、見識そしてそれらを統合したいわゆる「才能」といったものは、そのピークといったものがあり、人から聞いたハナシによりますと、理系学問分野におけるピークとは大体30代に訪れるそうで、そうした時期は、何かしら神がかっているようにも見えるということです・・。

それに対し、文系学問分野における才能のピークとは、一般的に理系学問分野のそれに比べて若干遅いということであり、まあ40代がもっとも創造的であるということです・・。

これらがどこまで科学的な意味で事実、本当であるかどうかは分かりませんが、少なくとも面白い意見であるとは思います・・(笑)。

また、たしかに理系学問分野、文系学問分野双方において才能を示す、創造的である時期は、各々の学問の性質上(理系が演繹法的、文系が帰納法的)により、何かしらの相異があり、また文系学問分野のそれは理系学問分野におけるそれよりも「遅いであろう」ということは漠然と、体感的にではありますが納得できます・・。

それ故、一つの試みとして、理系学問分野に進んだ方々は、自身が興味関心を持つことの出来る文系学問分野の一つを副専攻のような形で学び、研究するということは、知性の持続可能性を保持するという意味において、多少は有益であるように思われます。

他方で、文系学問分野に進んだ方々は理系学問分野において同様のことをするのです・・。

学問、研究、職業などの専門性が重要視される一方で、持続可能性もまた大事であると説かれている昨今ですが、これは社会、組織などといった集団に「のみ」に該当することを企図したものなのでしょうか・・?

個人の能動的な活動による知性の持続可能性(発展持続性)とは、長い目で考えてみますと、無視できない影響を社会に対しもたらすのではないかとも思われますが如何でしょうか?

とはいえ、ここまで記していて不図想起したことは、冒頭に挙げた「数年前に購入した書籍」を読んだ影響がここに出ているのではないかということです・・(笑)。

また、そのようなことを記しておりますと、今度はつい先日、抜粋引用した野上彌生子著の「迷路」下巻を想起します・・。

以前、この著作については「今後、抜粋引用することがないであろう。」と記しましたが、この箇所を面白く思い、つい書写してしまいました・・(苦笑)。

願わくは、この記事を読んだ(より多くの)方々が、その著作に興味を抱いて頂ければと思います。

また、今後機会がありましたら、冒頭に挙げた著作からも抜粋引用してみようと考えております・・。

その著者は、何度かこれまでのブログ記事に記したことがありますが、現在読んでいても「これはスゴイ!」と思える何かがあります・・。

こうした感覚とは、一体何処からくるのでしょうか・・(笑)。

ともあれ、ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。

また、さる四月の熊本の大地震にて被災された地域の早急なる復旧それに続く復興を祈念しています。








加藤周一著「夕陽妄語Ⅰ」筑摩書房刊 pp.249‐252より抜粋 20160626

「広島の原爆は、今から四十三年前の八月の事である。日本人がその事を忘れず、毎年の八月に世界へ向かって核兵器の廃絶を訴えるのは、まことに当然である。広島では日本人自身が犠牲者であった。しかしその立場からの訴えは、みずからが加害者で、他国の非戦闘老若男女の多数を犠牲にした場合にも、その事を忘れず、その責任の自覚を失わないことによって、説得力を増すだろう。逆に犠牲者としての自分自身のみを強調し、加害者としての自己を不問に付すれば、説得力は減じる。故に「ヒロシマ」と「南京虐殺」とは絡む。


しかしそれだけではない。中国との関係が、「南京」を日本側が忘れたり、ごまかしたりすることで、うまくゆかぬだろうことは、周知の通りであり。加害者が忘れても、被害者は忘れない。またいうまでもなく、倫理的にみれば、無抵抗の市民を殺すことが罪悪であるのは、その市民の国籍とは関係がない。「ヒロシマ」の子供も、南京の子供も、ドゥレスデンやマニラやアウシュヴィッツの子供と同じように、子供である。

しかし「南京」のまえには、「旅順虐殺」があった。今日の日本人が四十三年後も「ヒロシマ」を忘れないように、「南京虐殺」当時(一九三七)の中国人は、その四十三年まえの「旅順」を覚えていたはずである―ということに、無知な私の注意を喚起してくれたのは、畏友内藤佼子さんである。私は内藤さんから貸与された資料を読んだ。旅順での事件の詳細には、不明の点もあるが、その要領はおよそ次のようになるだろう。


日清戦争で、黄海の海戦に勝ち、制海権を握った日本軍は、朝鮮半島から北上する第一軍とは別に、大山巌大将の率いる第二軍を遼東半島に上陸させ、まず金州・大連を抜き、次いで旅順を陥落させた。その陥落は一八九四年十一月二十一日である。当日旅順市街に入った日本軍は、進撃の途中、先発の日本軍戦死者の屍体が残虐に斬りきざまれているのを見て激怒し、市中の「兵民男女老弱ヲ別タズ」、四日間にわたって、中国人を殺害した。一人の兵士の従軍日記は、「支那兵ト見タラ粉ニセント欲シ、旅順市中ノ人ト見テモ皆討殺シタリ、・・人家ニ居ルモ皆殺シ、大抵ノ人家二三人ヨリ五六人死者ノナキ家ハナシ」という(窪田仲蔵「一兵士の見た日清戦争」。宇野俊一「日本の歴史26、日清・日露」小学館、一九七六、六二ページ、の引用による)。


事件を目撃したのは、当事者ばかりでなく、また欧米の従軍記者や従軍した武官たちでもあった。一八九四年十一月の欧米の新聞には、「旅順口の虐殺」の記事があらわれる。十二月一日には、「タイムズ通信者の一人」が、旅順からの帰りに広島(戦争の司令部は広島にあった)の外相陸奥宗光を訪ね、日本軍が捕虜を「縛リタル儘ニテ殺害シ」、「平民特ニ婦人マデヲ殺シタルコト」は、「欧米各新聞ガ目撃」したばかりでなく、「各国艦隊ノ士官特ニ英国海軍中将ナドモ実地ヲ見タ」ことであるといい、日本史政府の善後策を訊いている(外務省記録、五―二―二、電受第七一五号、明治二十七年十二月一日、広島陸奥宗光外務大臣より林外務次官宛、外務省外交史料館)。


十二月二十五日には、新聞ばかりでなく、米国やロシアの行使が外相に説明をもとめはじめた。この時点での陸奥は、「事実は到底取消シ能ハサルコト」と考え、「旅順口一件ハ今日ニ在テハ唯タ日本政府及ビ日本ノ輿論ハ決シテ其暴行ヲ正当ト認メズトノ一事ガ僅ニ世界に対スル申訳ケナリ」として、「時事新報」や「日本新聞」の社説のその暴行を正当とするかのような議論を鋭く批判していた(外務省記録、五―二―二、電送第六六三号、明治二十七年十二月十五日、陸奥外務大臣より鍋島外務書記官を通じて伊藤総理大臣への伝言、外務省外交史料館)。


政府は結局、責任者を追及せず、その意味での善後策をとらず、欧米各国には弁解をつづけ、日本国民には何らの真相も知らせなかった。そして世界が、殊に日本国内の人々が、その事件を忘れるのを待ったのであろう。もちろん犠牲者のことは考えていない。だから四十三年後の一九三七年に、南京での虐殺事件が起こったのである。「南京」の加害者は「旅順」を覚えていなかった。「南京」の犠牲者は「旅順」を覚えていたし、今でも覚えている(たとえば薫志正編著「旅大史話」、遼寧人民出版社、一九八四)。


今日、日本国民のすべてが、「旅順虐殺」事件を忘れ去ったとは必ずしもいえないだろう。たしかに専門家は事件を知っているし、何人かの歴史家は事件を叙述している(たとえば宇野俊一、前掲書、または藤村道生「日清戦争」、岩波新書、一九七三、など)。しかし国民の圧倒的多数は、「南京」は覚えていても、「旅順」に思い至ったのである。そうして二つの事件を比較することが、日本の近代史を、沈黙による歪曲から救い出して客観的に理解するために、役立つだろうと考えた。


二つの事件は、国際的反響の大きな出来事を日本政府が国民に報らせようとしなかったという点で似ている。そのために、世界中で知っていることを日本人だけが知らないという状態が生じた。また責任の所在をあきらかにして、しかるべき処置をとろうとしなかった点でも、酷似している。すなわち犠牲者に対しての無責任が、共通の特徴である。


しかし大きなちがいもある。「旅順」の場合には、政府内部、殊に陸奥宗光を中心とした外務省の内部で、欧米諸国の世論を問題にし、それを考慮しながら政策を決めようとする努力が際だっていたのに対し、「南京」の場合には、もはや国際世論を問題にせず―たとえ外務省がそれを問題にしたとしても、外務省には政策決定についての力はなく―、「帝国不動の方針」を貫こうとした。一九三七年の日本政府の国際世論に対する態度は、一八九四年のそれと全くちがって、基本的な政策を動かし得るものではなかった。


なぜそのようなちがいが生じたか。「日清戦争」当時の日本は、軍事小国であり、少なくとも政府はそのことを意識していたが、その後軍備を増大させた「日支事変」当時の日本は、みずからを軍事大国と空想するようになったからである。かくして軍事力の増強は、常に必ずしも国の安全を保障しないということが、よくわかる。強大な軍事力は、実にしばしば、一国の政府と国民の国際世論に対する感受性を弱め、さらには国際情勢一般の理解力を極度に低下させる。それがどれほど多くの犠牲を自他に強いるかは、日本の場合にかぎらず、今さらいうまでもないだろう。」


  • ISBN-10: 4480433384
  • ISBN-13: 978-4480433381








2016年6月26日日曜日

20160625 「Erdgeist」

A「おかげさまで6月25日(土)も1日の閲覧者数が1000人に到達しました。
どうもありがとうございます。

また、最近は欧米からの閲覧者の方々が増加してきました・・。
一連の記事がどのように読まれているのかわかりませんが、とりあえず今後も記事を書き続けようと考えておりますので、今後ともどうぞよろしくお願いします。

さて6月25日(土)も東京に行き、書店(複数)に立ち寄り、面白い書籍をいくつか見つけました。

ここ最近、我が国の古代史に関しての書籍をあまり読んでおらず、そのため、この方面での知識を想起させる機会もあまりなく、実際困ったものであると思います・・(苦笑)。

また、そうであるからといって、そうした書籍を意識的に読み込む、詰め込むのもあまり良いものではないようで、丁度それは旬の食材を食べるのが最も健康的で良いとされることに似ているのではないかとも思います・・(笑)。

では「私にとって古代史関連の書籍を読むのに最も適した時期とは何時であろうか?」と考えた場合、それは九州を含む西日本に在住していた時期であったのではないかと思われます。

当時、少し足を延ばせば、そうした遺跡、旧跡が(自然なかたちで)割合多くあり、また、その気候風土がそうしたことを受容、考えさせるのに適していたのであったと思います。

また、私が我が国の古代史についての知識を得たのは、ことごとく、西日本在住の時期であったため、少なくとも関東で育った私にとって周囲の気候風土、環境とは、何かしら少なからず心身に対し影響を与える要素であっのではないかと考えております・・。

そして、このことを異言しますと、外に出ず、知らずの関東在住の頃の私とは、多少言い訳じみてしまいますが、母国の古代史についての具体的な関心を持つきっかけを持つことが日常生活において困難であり、その代わりに欧米の歴史文化について興味を抱き、それに関しての知識見識を持つことに捉われていたようにも思えます・・。

こうしたことをマクロの視点から極言しますと、首都圏特に東京とは、あくまでも欧米文化の影響を強く受けた近代(明治時代)以降の我が国の文化の最先端であり、それ以前の時代においては、覇権勢力(徳川幕閣)の本拠が存在したかもしれませんが、同時にそのことが必ずしも日本全土の様々な文化の最先端であったということにはならないということです

このことは特に近畿、関西方面に住んでみますと実感、納得することが出来ると思いますし、また、さらにそれ以前の時代においては、九州に住んでみますと考えがさらに変わるのではないかとも思います。

ともあれ、私の場合、西日本のいくつかの地域に各々数年在住する機会を得たことにより、それぞれの地域の歴史文化について能動的な興味を抱くに至り、自分なりにそれらを学び、調べていった結果、どうにか自身の国の古代史(あるいはその他時代)について、ある程度まとまった学識、見識(研究者レベルではないにしても)を得ることが出来たのではないかと思います・・。

また、当然といえば当然ですが、こうしたことは学ぶ主体(自身)が実際にその土地、地域に赴きそして(数年程度は)住んでみなくては本当の意味で「理解できた!」という感覚を得ることが困難なのではないかと思います。

また、そうすることが各々土地、地域の歴史文化に対する尊敬、尊重の態度なのではないかと思いますが如何でしょうか?

そして、そうであればこそ、はじめて、ある程度自由に自信を持って、その土地、地域の歴史文化についての見解を(自然に)表出することが出来るようになるのではないでしょうか?

また、そのように考えてみますと、それは何も国内地域間に関してのみならず国家間、国際的な場合においても同様であるのかもしれません・・。

このことに関しては特に残念であるとは考えておりませんが、私は海外留学をする機会がありませんでした。

しかし、それに代わるもの、いや、それ以上に大事な何かを得ることが出来たのではないかと考えております・・。

それが世間一般の客観的な評価に耐え得るものであるかどうかは別として・・(笑)。

とはいえ、少なくとも今後の我が国においては、近年のインターネットによる情報網の普及そしてその定着により、何もかも全て首都圏、東京が最先端、一番であると考えるのはどうも違うと思うのですが、これを読んで頂いた方々はどのようにお考えになるでしょうか?

ともあれ、ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。

そして、さる4月の九州・熊本での大地震により被災された地域の諸インフラの早期の復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」

2016年6月25日土曜日

野上彌生子著「迷路」下巻 岩波書店刊 pp.55‐58より抜粋 20160625 

「ねえ、」 呼びかけて、あとをつぐまでの数秒に、多津枝はその廃墟の、半分引き裂かれた二階家で「ハンガリアン・ラプソディ」を弾いていたのは、彼女自身であるかのように感じたのである。
「アメリカの爆撃機がどんどん飛んで来るようになっても、日本が勝つと思う。」
「はじめる連中は、勝つ気なのだろう。」
「あんたのこと、訊いているのよ。」
「わからないね。誰だって一応そういうほかはない。」 返事といっしょに、省三は紺のスエタの腕を組んだ。
「しかし、僕は不当な暴力は認めたくないし、暴力のうちに勝つことも信じたくない。シナの戦争がつねに成功を報じられながら、日本の手に入れているのは点と線に過ぎないといわれるのも、暴力にほんとうの征服のない証拠だからね。ナチやファシズムに対する否定も同じ理由だ。」
「でもドイツは勝ってるのよ。」
「勝っていることと、最後まで勝ちつづけるかどうかは、別だぜ。第一次のヨーロッパ戦争でも、はじめはドイツが勝ったのだからね。それに日本とアメリカの場合は、条件も全然違う。僕のは単に原理的な考えに過ぎないが、経済学者やエンジニアたちがひそかに抱いている悲観説は、アメリカの富と、無限の生産と、機械力の基礎づけによるものだ。多津ちゃんの恐怖だって同じ意味だろう。きみは最近まであすこにいて、アメリカと称する、石油と、石炭と、鉄と、銅との、あらゆる戦争工業物資から組み立てられて、胴っ原にはドルがざくざく詰まっている、たとえば、巨大な機械人間といった怪物を三カ月のあいだ眺めて来た。帰ったらさっそく遁げこみ場所だ、と脅えあがったのも無理ないよ。」
「ばかにしてる。」幽霊と子供の比喩にも似たそのいい方に、多津枝はちょっと反抗的な親しいほほ笑みを見せてから、左右のいびつな眼の瞬きですぐそれを消した。
「でもほんとうの意味では、私アメリカを怖がることないと思うの。金持ち喧嘩せずですもの、仕掛けなければ、爆撃機だって飛んで来はしないわ。それよか、勝とうが負けようが、アメリカと戦争さえすればよい。しなければならないみたいに思いこんでいる方が、ずっと怖い。」
「軍人となれば戦争が職業で、生活じゃないか。それにドイツとしては、新しい戦線をつくらせる意味で突つくだろうし、軍需屋は軍需屋で、いっそう儲けるためにおだてるだろうし―」
「そこまで、ほんとうのこというものじゃないわ。」
「なんだって。」
「私、誰の奥さんなの。」
「―失敬。」
多津枝はもう一度親しげにほほ笑もうとし、急に片輪のはずれた車のように大きい方の眼が吊れ、小さい方と斜っかいに眼窩の中で停止した、ぴりっと眉根だけが動いた。が、もう二週間まえになるけれど、と話しだした声はいともおだやかであった。
「国彦が来た時、会社のひとが二人いっしょに乗って来たの。晩御飯のあいだヨーロッパの戦争話がはずんでね。といったってクルップがどうの、スコダがこうのって儲け話だったのが、英米に凍結された在外資金のことから、とうとチャーチルのこのあいだの日本攻撃の演説になり、さて、今後の見通しはどうか、明るいか、暗らいかという議論がはじまったのよ。ねえ、明るいってば、平和解決だし、暗らいってば、戦争でしょう。」
「わかりきった話だ。」
「ですから、その積りになってたら、どうもおかしいの。よくよく聞いて見ると、あべこべなんですもの。明るいというのは、日米戦争までたしかにもって行けるというのだし、そのまえに外交の折衝でかたがつくのが、あのひとたちには暗らいってことになるのよ。」
多津枝は長椅子の凭れから腕をはなし、なにか蛇が鎌首をもたげたふうに、上半身をしゃっきりと立てた。膝におかれた手は、組みあわされているより、上になった五本の指が、下側の指を暴力的に捻じ伏せているように、また感情的になにか迸りでようとするものを、じっと食いとめている錘りのようにも見えた。今度はほほ笑みのかげさえ浮かべなかった。かえってよそよそしく蒼ずんだ顔に、唇をすこし尖らせ、張りつけたように瞠ったいびつな眼で、なにかほんとうに怒っているように省三を見つめた。子供の時から彼よりはずっときかぬ気の多津枝は、小言のでそうなことをしでかすと、逆に突っかかって来た。娘になり、人妻になってからもそれが変らず、わけても、結婚によって否応なく身につけている彼女の生活圏の内側にあるもので、彼の非難を受けても仕方のない話になると、この挑戦があらわれるのであった。
省三はあたらしく煙草に火をつけ、これも彼のきまった報い方で、無視的に煙を吹いた。ほんとうをいえば、多津枝に対してつねには決してもたない暖かい憐みを感ずるのも、彼女なりのよさを思うのもこの時に限っていた。蜘蛛がその糸で小さい羽虫を包むように、捕らえられた網の目のなかで、彼女がどんな有り方を、またどんなもがき方をしているかを、この場合ほど隠さず示すことはなかった。
浅間の山だって、ここと向側の小諸とでは方向が違うだろう。」
わずかな労わりを、その言葉に見せながら「彼らの明るいも、暗らいも、位置と見方で生ずるいわば物理的な相違だよ。だが、予想通り明るくなろうが、反対に暗らくなろうが、すくなくとも、僕自身には直接には関係ないな。どちらにしたって、今日明日とは行かないだろうし、その頃には南シナあたりの柔らかい泥が、いっそ気らくに眠らしてくれてるだろうから。」
「そんないやな話、いまからすることないわ。」
多津枝は急にほぐれた優しい顔で、組み合わせた手を解き、薄桃いろの掌をすりあわせた。」
迷路
 ISBN-10: 4003104927
ISBN-13: 978-4003104927
野上彌生子


20160624 東京での流行から考えてみたこと・・

本日も帰宅が若干遅くなり、日を越えてからの記事作成、投稿となります。

さて、ブログ記事の方は335記事を超え、あと30記事程度で365記事に到達します。

また一連の記事で最も古い記事の日付を見てみますと昨年の6月20日頃でしたので、丁度1年間で330記事作成したことにありますので、まあ10日のうち9日は記事を作成し、投稿してきたということになります・・。

また、以前も数度記しましたが、このブログとは、当初あまり多くの閲覧者を企図したものではありませんでした。

しかし、その割には、閲覧者数も伸び、またそこから、ブログ記事の更新も現在まで継続して為されたのではないかと思います。

これも読んでくださっている皆様のお蔭であり、今後、投稿した記事が365あるいは閲覧者数が10万人を越えても、できるだけペースを落とさずに記事を作成、投稿し続けようと考えております。

さて、ハナシは変わりますが、ここ最近、電車の中あるいは町のなかで、男女を問わず(しかし女性の方が多い)、特に若い世代にてジャケットやカーディガンの袖を通さずマントのように羽織っている格好が多く見受けられます。

この格好とは、おそらくここ1カ月程度で急激に首都圏にて増加してきたように思います。
そして、その原因、根源とは、おそらく雑誌か何かではないかと思われます。

また、他の地方都市などにおいても同じような格好とは、現在多く見られますでしょうか?
さらに、こうした格好、ファッションの火付け役の方々とは「一体どのような意図をもってそのような発信をするのであろうか?」と少し疑問、不思議に思いました・・。

ともあれ、地方都市に関しては観察していないのでわかりませんが、こうした格好、ファッションなどが急速に浸透する都市、社会とは、他の要素については一体、どのような傾向、特徴を持つことになるのでしょうか・・?

また、このことをもう少し考えてみますと、こうした流行ものとは、各々要素において「取り入れ易さ」といったものがあり「恰好、ファッション」といったものは、どちらかというと「取り入れ易い」ものであり、それに対し、概念、思想などといった抽象的なものとは、なかなかその元のまま(オリジナル)の状態にて他の地域が取り入れることが難しいのではないかと思われます・・。

そして、さらにこのことを考えてみますと、欧米を中心とした海外にて、我が国の特徴、傾向として述べられている、外部文化の取り入れ、物真似の巧みさ、および、その改変、時には改善の能力とは、さきに述べた流行現象の内部においても類似した要素により形成、作動しているのではないかとも考えさせられます・・。

さらに小説のテーマ、主題などで考えてみますと、それは、太平洋戦争での実体験に基づいた大岡昇平著の「俘虜記」そして江戸時代初期のキリスト教弾圧期を舞台とした遠藤周作著の「沈黙」などが挙げられ、また、さらに小説ではありませんが、海外において我が国の歴史、社会の研究において多く用いられているのが丸山眞男の一連の著作であることは、特に現在の我が国においては、なかなか重要なことなのではないかと考えますが如何でしょうか?

ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。

また、九州、熊本で被災された地域の今後の早急な諸インフラの復旧そして復興を祈念しております。








2016年6月24日金曜日

20160623 実験とブログ記事作成

ブログ記事の作成も300を超えしばらく経ちましたが、書きたいことは相変わらず、あるようなないような感じで本日も書きはじめました・・(苦笑)。

また、記事の作成期間も1年間を越えましたが「さて、私の文章作成能力とは多少なりとも向上したのだろうか・・?」とも考える日々です・・(苦笑)。

とはいえ、ブログについてのインターネット上での情報を閲覧すると、大体(半数以上)は数カ月程度にて中断、休止するということですので、書籍からの抜粋引用も多く含みますが、ここまで記事作成を継続出来たことは、誇る程度のことではありませんが、とりあえず「今のトコロこんなものではないでしょうか・・?」といった感じです・・。

また、この先、どの程度まで継続することが出来るか分かりませんが、とりあえずキリのいいところまでは継続してゆこうと考えております・・。

それ故、これまで興味を持って一連の記事を読んでくださっている皆様、今後ともどうぞよろしくお願いします。

そういえば、以前の研究分野の実験においても、当初はそうでなかったのですが、実験にのめり込んでゆくにつれ、試料のNが増えていったことを思い出しました・・(苦笑)。

では何故、のめり込んでゆくにしたがい試料のNが増えていったかと考えてみますと、それは試料を用いた実験から抽出されるデータのブレ、標準偏差、SDが大きいことに不満をおぼえ「Nを増やしてゆけば(標準偏差が)小さくなり、より実験条件に基づいた事実に近いデータを抽出することが出来るのではないだろうか?」と考え、如上のような事態(Nが増えていった)になったと記憶しております・・(苦笑)。

このような多少乱暴な考えの下で実験を続けてゆくと、試料作製に慣れたことからか、変に試料作製のウデが上達して全体的な値(接着強さ)が向上してしまい、ある意味困ったことになりました・・(苦笑)。

とはいえ、その値とは、当時の国内外における同一、類似した目的を持つ実験に基づいた論文、学会発表等で述べられていた値と近似しており「まあ、この方が諸事都合が良かろう・・。」ということになり、以後、ある程度安定して自分なりの標準的な値(接着強さ)が確立?されました・・。

最終的には試料作製段階(実験の前)において、目視にて「この試料の値はこの程度!」と分かるようになるのではないかと不図考えたこともありましたが、これも今考えてみますと一種のビョーキではなかろうかと思います(笑)。

とはいえ、実験を続けてゆくと、何故だかよくわかりませんが、こうしたことを半ば本気で「出来るようになるのでは・・?」と思うことが度々あったのです・・(笑)。

そして、このようなメカニズムから様々なカルト的な考えもまた生じてくるのかもしれません・・(笑)。

しかし同時にそうした(決して正常、冷静とはいえない)思い・情念によって試料が作製され、実験が為され、科学的事実の探求が為されていたということは、一体どういうことなのでしょうか(笑)。

無論当時、データ改ざんをするようなマネはしておりませんでしたが、それは「正直さ」からというよりも、ただ実験が楽しかったからではないかと思います・・(笑)。

さて、ここまで記していてハナシをこれまで作成したブログ記事について戻し、このN300以上とは何かの目安になるのでしょうか?

そして、さらにこれを分類しますと書籍からの抜粋引用がおそらく120程度、自身の記したものが210程度ではないかと思います・・。

また、ブログ作成当初は書籍からの抜粋引用が高い割合を占め、その後、記事作成期間が延長するに伴い、対話形式のものにはじまり、徐々に自身の記事の数が増加していきました。

このことから、これまでの私のブログに関していえば、当初書籍からの抜粋引用にて文章力を練り、その後、対話形式を用いて自身の文章を書くクセを定着させ、そして独白的な散文形式に徐々に移行していったと考えることが出来るのかもしれませんが、これを別の視点を持つ私から云わせれば以下のような感じとなります・・。

「コトはそう単純なものではなく、そうした方法論的なものによって「のみ」記事作成を継続することが出来るのであるならば、多くのブログは数カ月程度で中断、休止することはないであろう。

また、こうした方法論も如上のやうに後知恵で述べられれば簡単と思われるかもしれないが、実際のところそれは(継続的作成のための)苦肉の策の(連続の)結果であったのです・・。」

とはいえ、今後どの程度の期間、ブログ記事の作成が継続して為されるかわかりませんが区切りのいいところで閲覧者10万人あるいは365記事程度になるまでは継続してみたいと考えております。

また、ここまで書いていて不図思いましたが、以前実験をしていた時と同様、現在の私とは多少オカシクなっているのでしょうか(笑)?

いや、そのようなことはないと思います。

オカシクなっているのではあれば、ここまで記事作成を継続して行うことは出来なかったのではないでしょうか?

いや、オカシクなっていればこそ、ここまで記事作成を継続してこれたのではないか?

通常であれば、そこまで継続的に文章を書くということはないのではないか?

そして、このせめぎ合いに果たして科学的な結論、見解とは存在するのでしょうか(笑)?

ともあれ、ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。

さる4月の熊本での大地震によって被災された地域における諸インフラの速やかな復旧そしてその後の復興を祈念いたします。」






2016年6月22日水曜日

20160622 コンラッド著「闇の奥」とM2病・・

昨日のブログ記事において「コンラッドの小説」から抜粋引用しましたが、私がコンラッドの著作をはじめて読んだの和歌山在住の頃でした。

当時住んでいた場所の近くに24時間営業の大型商業施設があり、その中に入っている書店は時間に関係なく本を探せ、読めるため、重宝し、よく出入りしておりました。

そうした時、岩波文庫の書棚にて立ち読みしている際、偶然手に取ったのがコンラッド著の「闇の奥」でした。

その後、他のコンラッドの著作に大分ハマったようで、長編を含む数作品を比較的短期間で読んだ記憶があります。

しかし、そうであっても、やはり最初に読んだ「闇の奥」に一番感銘を受け、また、この著作がフランシス・フォード・コッポラ監督作品の「地獄の黙示録」(1979)の原作、ベースであることを知り、何度かこの作品を観返したりもしました・・。

ちなみに当時の私が取り組んでいたテーマは紀州、和歌山で行われていた雨乞い祭祀についてであり、その包括的な理解、把握のための方法論の一環としてフレーザーの「金枝篇」などにも手を伸ばしておりました。

現在考えてみますと、こうしたことは、扱う題材が我が国古来の民俗、風習であるのに対し、その用いる方法、依拠する書籍が(自然と)欧米的であったことに気が付かされます・・。

しかし、こうした題材(我が国古来の民俗、風習)を社会科学分野の研究としての体裁を整えるためには、そうした方法が(明治以来現在に至るまで)最も適切であるのかもしれません・・。

また、こうしたことは理系学問分野においては概ね当然のことであるのでしょうが、人文社会科学系の我が国の事物を扱う研究の場合、おかしな感じを受けなくもないと思います・・。

ともあれ、当時はそうしたことを殆ど考えず、単に自身の取り組んでいる対象の理解、把握に対し(大いに)効果的であると考え、それら著作に対し(自分なりに)「内容」を見出していたのではないだろうかとも思います・・(内容とは何でしょう・・?)。

また、そうはいうものの、あの時期に「闇の奥」に出会ったことは、なかなか不思議で面白く、その後しばらくの間、周囲の方々にこの著作のことを吹聴して回っていたような気がします・・(苦笑)。

さらに面白いことは、この著作(「闇の奥」)を原作、ベースとした、さきに挙げた映画「地獄の黙示録」内で登場人物の一人(カーツ大佐)が手に持っていた書籍が「金枝篇」であったことです・・。

もちろん当時の私はこうしたことを知らず、単に参考文献の一つとして「金枝篇」を読んでいたのですが、これを知った時はかなり不思議に思いました・・。

もちろん当時の私はさきと同様、このことを周囲の方々に吹聴して回ったことはいうまでもありません・・(苦笑)。

そして、こうした一連の現象(偶然による類似性の発見およびその吹聴)をも含みM2病と呼ぶのではないかと思います(笑)。

・・意外と、こうした経験が大事であるのかもしれません・・。

こうしたことは、私の経験から理系学問分野においても同様に生じていると思いますが、今もって理解できないのは、その作用機序、メカニズムです・・。

とはいえ、その作用機序、メカニズムは置いておいても、そうした現象が各地で同時多発的に生じたり、それらの相互作用などが為されることにより、様々な学問研究とは進化発展し、また同時に学問的潮流なども生じるのではなかろうかと思いますが、これを読んだ皆様は如何お考えになるでしょうか?

また、そうしたことと関連があるかどうかわかりませんが、私は時折手紙を書く際に、この著作(「闇の奥」)から時宜に適い且つ印象的であると思った部分を抜粋引用を行うことがありますが、この記事の場合においては以下のものが(もしかしたら)適切ではないかと思いますが如何でしょうか?

「・・No, it is impossible; it is impossible to convey the life-sensation of any given epoch of one’s existence-that which makes its truth, its meaning-its subtle and penetrating essence.

It is impossible. We live, as we dream-alone…

Heart of Darkness Collins Classic JosephConrad  p.32



「・・そう,それは無理だよ.自分の存在の忘れ難い一時点で覚えた生の感覚というものを,他人に伝えるのは不可能なんだよ.その感覚こそが人生の真実,その意味―その微妙で深く浸透する本質なのだが.無理だな.ちょうど夢を見るのと同じように,僕らは生きているんだ―ただひとりぼっちでね・・」



「闇の奥」三交社 藤永茂訳 pp.74-75

ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。
さる熊本での大地震により被災された地域の諸インフラの早期の復旧そして復興を祈念します。」








2016年6月21日火曜日

照屋佳男著「コンラッドの小説」早稲田大学出版部刊 pp.26‐28より抜粋  20160621

昨日記した記事「納豆、照葉樹林文化・・銅鐸?」とは最近記した記事の中では珍しく、出だしから閲覧者数がそこそこ伸びました・・。

なぜこの記事が最近書かれた記事の中で比較的多くの閲覧者数を得られたのかは未だ不明ではありますが、単に、それら記事の中では比較的面白かったということになるのでしょうか・・?

これまでに300程度の記事を作成してはきましたが、正直なところ「これはウケるぞ・・。」と確信をもって作成した記事はただの一つもありません・・(苦笑)。

実際にそういった記事が一つでもあれば、それはそれで面白いかもしれませんが・・。
しかし、そうはいっても、あまりウケを狙い過ぎるのも、後々のことを考えてみますと、あまり良くないのではないかとも考えさせられます・・。

また、こうした考えとは、一連のブログ記事作成をはじめた当初よりボンヤリとは持っておりました。
しかし、それ以上に閲覧者の方々からの閲覧記事の傾向などを見て「何となく気づかされた」部分がより大きいのではないかと思います・・。
もとより私はあまりこうした特に思想、信条、(歴史的)事実の認識にかかわるような、そしてブログ記事のような公開を前提にするような文章を書く上でのバランス感覚に長けている方ではなく、むしろ反対であると考えておりますが、上に記したような反応を見ておりますと、そうしたことを、まさに「何とくなく気づかされた」といった感じがあります・・。
このような感覚もなかなか不思議で面白いものであると思います・・(笑)。
(どのようにしてそうした感性が精神内部に生じるのであろうか・・? そのメカニズムとは?)
そういえば、少し前に投稿記事数が300に到達しましたが、その後、現在においても未だ「新しい視野、視点」などは開けてきません・・(苦笑)。
ブログ記事の作成などとは一般的にこういったものなのでしょうか?
しかしながら、以前から繰り返すようではありますが、一応ここまで記事作成を継続することが出来た主要な原因とは、閲覧者の方々からの様々な面白い反応であったとはいうことが出来ます。
それ故、これは決して私一人の手によって為されているのではなく、閲覧してくださっている方々の合計としては甚大なるご協力により、どうにか継続することが出来ているといって良いです。

さて、ここまで書いていて不図思い起こした文章があるので以下に抜粋引用します。」


「照屋佳男著 「コンラッドの小説」早稲田大学出版部刊
pp.26-28より抜粋」

「「ナーシサス号の黒人」には有名な序文が付せられてゐる。一見難解なこの序文の中心には伝統の問題が据ゑられている、尤もコンラッドは伝統という語をただの一度も使ってはゐないが。

「彼(芸術家=小説家)の訴へは(思想家や科学者のやうに)声高にはなされないが、より深い所に達する。思想家や科学者のやうに)明晰ではないが、より深く人の心を動かす―さうしてそれはじきに忘れられる。
それでもその影響はいつまでも残るのである」。

コンラッドに言はせると、芸術家は使ひ捨ての利くやうな思想や事実や理論を相手にしてゐるのではない、芸術家が訴への対象にしてゐるのは、知恵に依存しない我々の存在のあの部分、即ち我々内部の、習得された部分ではなくて天与の部分である」。

これは格別新しい文学論ではない、寧ろ陳腐とさへ評したくなるやうな文学論なのだが、ただ「知恵」(wisdom)といふ語の使い方は、そのやうな陳腐さを消し去る程の重みを有してゐる。

右の一句には過去の力、伝統や思ひ出の力を無視して、「知恵」を獲得したつもりになってゐる世の「賢者」への痛烈な批判が感じ取られるのである。

「我々内部に宿る生きとし生けるものに対する連帯の感情―無数の孤独な魂を結合する微妙にして堅固な確然とした連帯の感情、夢、喜び、渇望、幻想、希望そして恐怖を通じての連帯の感情、人間を相互に結び合せ、全人類を結合する連帯の感情―死者を生者に、生者を未生の者に結び合せる連帯の感情」とコンラッドは言ふ。

「連帯」(solidarity)といふ語が「知恵」に対置されてゐると我々は理解することが出来るが、列挙されてゐるさまざまな「連帯」の性質の中で際立って読者の注意を引くのは「死者を生者に、生者を未生の者に結び合せる」といふ性質であらう。

死者と生者と未生の者との結合という観念を通じて、コンラッドは「連帯」に伝統を含意させてゐる、すると「賢者」の振り翳す思想や事実や理論に伝統が対置されてゐる事になる。

芸術家にとって重要なのは知恵ではない、伝統の意識である、とコンラッドは言ひたいのだ。

しかし伝統の意識の獲得が途方もなく大きな労力を要する事をコンラッドは承知してゐる。

第一、伝統は、船乗りにとっても作家にとっても、仕事への献身を通じてしか感得され得ない。

仕事への献身といふ一事は船乗りから作家への移り行きを可能にした当のものであった、小説家としての仕事への献身を、コンラッドは「形式と美質の完璧な融合をめざして脇目もふらぬ献身」といふ風に表現し、かう述べる、「さういふ創作上の課題を成し遂げようと誠実に努力すること、力の及ぶ限りこの道をどこまでも辿らうと努力する事、躓いても、疲れても、非難されてもひるまずにこの道を辿らうと努力する事、これだけが芸術家の存在を正当化し、それに確実な根拠を与へるのである」


このような不撓不屈の専心的な努力を通じて伝統が生き生きと感得される時、芸術家は思ひ出の力を借りて経験に輪郭を与へ得るやうになる。

「思い出の力を借りて」と言ったのは、伝統は一面から言ふと、思い出の集積、或は上手に思ひ出された過去の集積に他ならないからである。

そして作品において明瞭な輪郭を与へられた経験とは、「仮借なき時間の奔流」から掴み取られた、或は救ひ出された「過ぎ去り行く生の局面」「生の断片」に他ならない。別言すると、それはさういふ「局面」や「断片」の「震動、色彩、形式」或は「説得力ある一瞬一瞬の核に存する緊張と情熱を明示する事に他ならない。

コンラッドの小説

照屋佳男

ISBN-10: 4657909312
ISBN-13: 978-4657909312

ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。

大雨が降った九州の皆様の御無事および、さきの大地震にて被災された熊本県地域での被害がなく、今後の復旧、復興が速やかに為されることを祈念します。





20160620 納豆、照葉樹林文化・・銅鐸?

週のはじめではありますが、本日も帰宅が遅く、日をまたいだ今現在より記事を作成することになりました・・。

さて、先日記した紀州、和歌山名物の「なれずし」についてですが、かつて食品の冷凍、冷蔵技術が飛躍的に発展する以前の時代においては、こうした発酵食品が一般的なものであり、また東部日本に比べ温暖湿潤な気候風土である西日本においては、より一層その傾向が強かったのではないかと思われます。

現在、納豆といえば関東(特に水戸)などが著名ではありますが、おそらく、かつてのそうした時代(冷凍、冷蔵技術の進化以前)においては、納豆もさきの「なれずし」同様、西日本においても一般的な食品であったと考えるの自然です。

奈良、平安時代における朝廷での宴会の献立、あるいは各地方から朝貢される食品の記録などを見ますと、そこには様々な発酵食品が見受けられることから、納豆も名称こそ現在と異なるかもしれませんが、それらの中に入っていたものと考えられます・・。
(未だに納豆の語源が納得できません・・(笑)。

では、何故現在の紀州、和歌山を含む関西、近畿地方とは、納豆文化が東日本に比べ人気がなく、また一般的ではないのだろうか?(まあ、あくまでも一般論ですが・・)と考えてみますと、そこにはあまり明確な原因、理由が見受けられず、ただ単に「住民達の食文化、食品に対する嗜好が変化したのではなかろうか?」ぐらいとしかいえません・・。

また、それと関連して中尾佐助が述べた東アジア南部を中心に広がる「照葉樹林文化論」の生活文化の中には、納豆を含む発酵食品の製造、嗜好が挙げられております。

御存じではあるかと思いますが、納豆とは日本特有の食品ではありません・・。

ともあれ、我が国の場合、全体的な植生において西日本(大体フォッサ・マグナ以西)の方が常緑性照葉樹が優勢であり、まあ、こうした植生となる気候風土の地域において、そうした生活文化が自然に発生し、それが営まれた易かったのではないかと考えられます・・。

また、それと関連して、大陸における銅鐸と類似した要素を持つとされる精銅の祭器とは、現在の中国南部、東南アジア北部といった、さきの照葉樹林文化圏において、時代は多少異なるものの見受けられ、その埋納の仕方などに類似点があることが指摘されております。

こうしたことも我が国の歴史、文化を考えてみる上でなかなか面白いのではないかと思います。

本日は何故か、こうした話が思い浮かびました・・。

また、それと多少関連するかもしれませんが、先日も少し書きましたが、ある書籍で地名に関しての大変面白い記述を見つけましたので、近日中にその部分を抜粋引用しようと思います。

ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。

さる九州、熊本での大地震にて被災された地域の速やかな復旧そして復興を祈念しております。」


2016年6月19日日曜日

20160619 紀州鉈およびなれずしについて・・

おかげさまで昨日もブログの閲覧者数が1000人に到達しました。ここ最近は時折、突発的にではありますが、こうしたことがありますので、全体的に見れば最近の閲覧者数増加の割合とは上昇しているのではないかと思います・・。

今後も記事を作成、投稿し続けようと考えておりますので、
どうぞよろしくお願いします。

さて、本日の首都圏は昨日に比べ気温もあまり上がらず、曇っておりそのためか日差しは強くなく、夕刻には少し雨も降りました。
丁度その頃、神田神保町におり、書店の屋外にある本棚を店員さんが急いで店内に戻すのをいくつか見かけました。

本日もまた面白そうな書籍を数冊見つけましたが、購入には及ばず、書籍名、著者をメモするに留めました。

そのうちの一冊は社会学者ゲオルグ・ジンメルの著作でしたが、この方はたしか以前、対話形式のブログ記事にて出てきましたが、思い返してみますと、さらに以前、和歌山在住の頃、お世話になった先生からの御依頼で書いた記事にも、この方の文章を抜粋引用しておりました・・。

この記事のデータも現在は手元になく、大変残念ではあるのですが、その内容は紀州、和歌山にて多く見られる林業用の鉈(なた)について述べたものでした。

この鉈とは一般的に紀州鉈と呼ばれるものであり、紀州、和歌山地域一帯においては一般的な形状である(とされる)のですが、他地域出身の私からしますと、そうした地域にて日常的に用いられている道具の形状が大変新鮮に見え興味を憶えた次第です・・。

また、その他のこうしたものとして、食文化に属するものではありますが「なれずし」がそうしたものであると思われます。

この「なれずし」とは米飯を乳酸発酵させた往時の保存食品の一種であるのですが、これは現在の寿司(江戸前寿司)の祖型(少なくともその一つ)であり、現在の寿司が酢飯をシャリに用いるのは、この「なれずし」文化の流れ、あるいはその省略化、簡略化とも見做すことができます。

ちなみに紀州、和歌山においては「なれずし」と共に「なれずし」よりも後代に考案された「はやずし」と呼ばれるものがあり、これが酢飯を用いた棒寿司であり、現在ではこちらの方が一般的になっております(この「はやずし」とはかなり美味しいと思います。)。

また、和歌山ラーメン(中華そば)の多くの店にて供されている「はやずし」(以前ブログにも記しました。)とは、これを概ね一口大にしたものを葉っぱにて包んだものです。
これは形状としては奈良県名産の「柿の葉寿司」よりも若干大きく、また多少丸みを帯び、さらに酢漬けの生姜の切片が具(大抵はサバ)とシャリの間に入っていることが多いです。
そして、これと一緒に和歌山ラーメン(中華そば)を食するのが、こちらの一般的なスタイルです。

それはさておき、さきの「なれずし」とは(気温、湿度の下降に伴い)発酵が急速に進まなくなる9月以降に供されることが多いのですが、これを収穫の祭りの際に濁り酒(どぶろく)と共に飲食することが中紀北部の湯浅、有田周辺においてよく見受けられる伝統的な食文化とのことでした。

そして、この「なれずし」とは大変興味深い食品であり、且つ食べる人を選ぶと思います(においが独特ですが慣れると病みつきになるといいます。まあ西欧のある種のチーズと似たような感じがしますが・・)が、発酵食品が様々なコンテンツにおいて取り上げられることが多い昨今、興味を持たれた皆様、一度試みては如何でしょうか・・?

南海電鉄の和歌山市駅近くに昔からの有名なお店があり、さきに記した「なれずし」、「はやずし」のコトもその大半は、このお店の御主人から伺ったことです・・(笑)。

ちなみにこのお店の「はやずし」はかなり美味しいと思います。和歌山市に行かれる機会がある方は是非双方(「なれずし」、「はやずし」)試されることをおススメいたします(笑)。
さらに、こうしたことをもう少し知りたい、興味を持たれた方々には以下の書籍をおススメいたします。

「すしの本」(岩波現代文庫)






  • ISBN-10: 4006030703
  • ISBN-13: 978-4006030704



  • ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。
    おかげさまで昨日閲覧してくださった方々が90000人に到達しました。

    さる四月の九州、熊本での大地震にて被災された地域の諸インフラの復旧、それに続く復興を祈念しております。」














    2016年6月18日土曜日

    20160618 閲覧者数90000人到達

    A「昨日作成したブログ記事とは書きながら途中何度か強い眠気に襲われました・・。
    これまでこうした状態にてブログ記事を書いたことはありませんが、こうした状態で書かれた記事も今後、何かしらの具体例にはなるのではないかと思い、多少の加筆訂正は行いますが、削除はしないと思います・・(笑)。

    さて、本日首都圏は夏日となり、日中の外出の際は多少暑く感じられました。
    私はこうした暑いと感じられる季節になってきますと和歌山、九州でのことが思い起こされます。

    現在私は(再び)首都圏にて生活しており、朝の通勤電車や都会の雑踏にも(再び)慣れてきましたが、それと同時にかつて首都圏に暮らした折に持っていた大都市、首都東京の様々な流行的事物、文化に対する興味、関心はかなり薄れたのではないかと思います。

    これは年齢の為なのであろうか?あるいはその他の要因によるものであろうか・・?

    とはいえ、いくつかの学問分野に関しては時期、季節などにより多少の変動はあるものの、相変わらずともいっていい興味を持っていることを自覚しております。
    本日も神保町の書店街を徘徊し、いくつか面白そうな本を見つけました・・(笑)。

    また、それと関連して以前、紀州、和歌山における古墳の造営様式について記したブログ記事と関連があるのではないかと考えさせられる記述を見つけましたので、今後機会がありましたら、また抜粋引用してみようと考えております・・。
    こうしたことに興味がある方々には是非読んで頂きたく思います(笑)。

    ともあれ、こうした自身が以前に考えた、記したことに関連がありそうな書籍などの記述を見つけますと、何となくワクワクしてくることは昔からあまり変わりはないようです・・(笑)。
    また、こうした感覚がなければ学問、研究とは、どちらかというと苦行的色彩が強くなってゆき、持続可能性を持つには至らないことが多いのではないかと思いますが如何でしょうか?

    また、当然といえば当然なのですが、こうしたことは実験ありきの理系学問分野においても同様であり、実験が進捗するに伴い、自身の行っている実験に対する疑問が湧き、自然と関連論文を読んでみたり、試料の作製方法、実験方法なども追加的に検討、考察を行ってゆくようにもなるのではないでしょうか?

    ・・さて、ハナシは変わりますが、本日ブログの閲覧者数が90000人に到達しました。
    80000人に到達したのが今月はじめであったので、直近10000人の閲覧者の増加とは、なかなか速やかなものであったのではないかと思います。
    そして、これまで拙いもの(が)多い一連のブログ記事を興味を持って読んで頂いている皆様、どうもありがとうございます。

    次は、とりあえず閲覧者数が100000人あるいは記事数が365に到達するまで記事作成を継続しようと考えておりますので、今後とも、どうぞよろしくお願いします。

    お蔭さまで当初、多くの閲覧者数を企図しなかったこのブログも、とりあえず、ここまで来ることが出来ました・・。

    そして2カ月前の九州、熊本で発生した大地震により被災された地域における諸インフラの復旧そしてその後の復興を祈念しております。」













    20260617 三つの魂?

    A「本日は若干帰宅が遅くなり、また多少疲れていたため「今日はブログ記事作成を止めておこうかな・・?」と思いましたが、まあ、それでも何かしら書いておこうと思い、書きはじめた次第です・・。

    ・・とはいえ、どうしたわけか本日は書きたいこともあまり思い浮かびません・・(苦笑)。

    そういえば、昨年もそうでしたので、この季節(春と夏の間)とは、少なくとも私にとっては文章を書くのが辛い時期であるのかもしれません・・。

    それが何故であるかはわかりませんが、まあ大抵の人には何かしら季節による、このような傾向があるのではないかと思いますが如何でしょうか?

    そして、これまで半ば惰性、習慣的にブログ記事作成を継続してきたことにより、今年のこの季節は何かしら自身の文章を作成し続ける(乗り越える)ことができるのでしょうか(笑)?

    それはここ最近になり自覚した自身の傾向(この季節になると自身の文章が書き難くなる。)と、これまで習慣的に継続してきた自身の行動(ブログ記事の作成。)との内面での葛藤あるい決闘であるのかもしれません・・。

    そしてその勝敗、あるいは妥協の結末とは、これまた私自身が握り、支配しているのことなのです・・(笑)。

    とはいえ、同時にその結果とは、私自身も未だ知り得るものではなく、ただ、そうした事態をどうにか望ましい、良い方に持っていこうとする私の努力、決意の程度?により、どのような形であれ、今後、その結果が認識され得るものとなるのではなかろうかと思います・・。

    そして、そこまで書いて不図思い起こしたことは、かつて南方熊楠が記していた「人は三つの魂を持っている。」ということです。
    このことは、ここ最近ブログ記事作成を継続してきたことにより、以前よりも、自分なりにではありますが、その意味が分かってきたのではないかと思います・・。

    具体的には、これまでの独白形式を用いた一連の記事から示される著者(A)の性格と、在の普通、日常生活における「A」自身の性格とは、一見分離、断絶したものであると見做されるかもしれないということです(まあ、そうしますと二つですが)・・。

    また、ブログ記事とはいえ、ある程度文章を作成し続けておりますと、その詳細なメカニズムとは分かりかねますが、自身の書きコトバを司る層とハナシ言葉を司る層が分離、断絶そしてその後、無意識化の末、混淆してゆくような現象があるのかもしれません・・(無意識を支配する「A」自身で合計三つ)。

    いや・・もしかすると、このようなことは自明、当たり前のことであるのかもしれませんが、どうでしょうか・・(笑)?

    とはいえ、こうしたことを前述の南方熊楠のコトバと結び付けようとする言及、指摘とは、私としては、はじめてであり、それにより、少なくとも当ブログ記事を作成した意味にはなったのではないかと思いましたが如何でしょうか・・?

    ここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
    また、二カ月前の九州、熊本での大地震により被災された地域における諸インフラの復旧そしてその後の復興を祈念しております。」







    2016年6月16日木曜日

    20160616 コトバ、文字、神話について・・

    A「昨日投稿した記事は3年前の丁度今頃に記した手紙がPCデータより見つかりましたので、個人特定要素を除き、これを以って記事とさせていただきました・・。

    これは見方によっては手抜きではありますが、同時に「過去の自分に手助けをしてもらった」と考えますと、まあ、そこまで悪いことでもないと思います・・。

    また、過去の自分から手助けをしてもらうことがなければ、このブログをはじめ、我々が何かを為す上において、その多くが困難となってしまうのではないでしょうか?

    しかし、そうはいうものの、では「過去の自分とは一体どのようなことが出来、どのような性質、傾向を持っていたのだろうか?」と考えてみますと、それもまた明確に想起、定義することは困難ではなかろうかとも思います・・。

    そして、そのような時、過去に自身がノートに記した日記などを読んでみますと、それは当ブログ記事あるいは手紙のように他者に対し公表することを前提としておりませんので、文章としてはひどいものであることが多いのですが、同時に書いた本人からしますと、何と言いましょうか「過去の自分自身が迫ってくる」ような感覚があり、それが落ち込んでいたりした時に記されたものであれば、否応なく再度そういった感情、気分を想起いたり考えたりすることになるのです・・・。

    そのように考えてみますとコトバ、文字、文章とはつくづく面白いものであると思います・・。

    何故我々はいくつかの線を連ねた形象およびその連続から様々な感情、想念、思考などを惹起させることができるのでしょうか?
    こうしたことは自明のことではあるのですが、同時によく考えてみますと、とても深い何かがあるのではないかと思います・・。

    とはいえ、こうしたことは何も現代に生きる我々のみならず、それを当初発明した世界各地の古代の人びともまた、そうしたコトバ、文字、文章の不思議さに対し、より新鮮な神秘性、神性を感じていたのではないかとも思います・・。

    そして、彼等がコトバ、文字、文章から感じた神秘性、神性に枠組み、形式を与えたものが世界各地における神話の一つの大きな源流、起源であったのではないかと考えます。

    さて、ここまで記していて不図「コトバ、文字、文章が神話に枠組みを与えたのであるならば「神話」がその原型、起源ともいえる「歴史」などは、かつてのコトバ、文字、文章と同義に近い意味があり、それ故に、文(ふみ)と史(ふみ)は同じ読み方があるのかもしれないなどど思いました・・。

    私はこうしたことは素人ではありますが、何かしらの関連はあるのではないかと思います。

    また、我々日本の神話とは、研究者の指摘するところによると東北アジアから東南アジアにかけての地域のそれら(神話)を混淆したものが多く、その原因とは様々にいわれております。
    そして、こうしたことは我々が現在用いている日本語、漢字(ひらがなは漢字を崩したもの)とも、ある程度(正)比例しているのではないかと思われますが、どうなのでしょうか?

    ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。
    二カ月前の九州、熊本の大地震で被災された地域の諸インフラの早期の復旧そして、それに続く復興を祈念しております。」













    2016年6月15日水曜日

    20160615 2013のこの時期に作成した手紙(若干加筆修正)

    お疲れ様でございます。**です。さて、長旅およびそれに続くお仕事大変かとお察しします。
    こちらは現在学位審査準備の最終段階にあります。しかし、これまでの経緯から、その精神的なプレッシャー・不安感はかなりのものであり、またそれは今年に入り徐々に大きさが有意に増大しつつあることが認められます。
    そして、現在はそのピークであるのではなかろうか、あるいはそうであることを望んでいる次第です。
    また、その為か先日初めて、心療内科というところに受診しました。
    診察結果として、これまでの蓄積した疲労からくる神経衰弱のようなものとのことでした。
    しかしながら、私感としては、特に問題はなく、これまでのところはこなしており、また、周囲との人間関係も変化無く、特に悪化した様子もありません。とはいえ、周囲がどう思っているか、そして私がそれに気付いていない可能性もあります。一方において、これまでの経験より、それは可能性として極めて低いとも考えます。
    ただ、ここ最近、時折、大変暴力的・自暴自棄な観念に支配されそうになることがあるのです。
    これはなかなか自分の理性とやらで抑えることができないもので、こうなりそうな時は医師から処方された薬を服用します。そうすると不思議なもので、しばらく経つとこの精神状態が好転するので、人間の心の案外物理的な性質あるいは意外な単純さを垣間見た(感じた)気がします。
    さて、DVDをひとつお送りします。これは日本のプレーヤーでも視聴可能ですが、字幕がなく、英語の音声だけというのが、只一つのマイナスポイントではありますが、昨今流行のCGを多用した戦争映画に比べ、やはり迫力の質が違います。また、浅学な私から見てですが、史実に沿って作製されていることも認められます。
    無論**は既に御覧になり、それ以前に私は**からこの映画の存在をお聞きしていたのですが、さすがにDVD化されている事は御存じなかったのではないでしょうか?
    現象としては和歌山時代の「地獄の天使」と同様であります。
    また、しばらくしましたら御葉書書きます。
    現在、季節の変わり目ですが、どうぞ御自ください。
    加えて、どうぞ***に宜しくお伝えくださいませ。
    それでは失礼致します

    2016年6月14日火曜日

    20160614 集合的無意識、時代精神 萃点、やりあて・・。

    これまでの私のブログを閲覧して頂いている方々の多く(半分以上≠60%以上)とは、面白いことにマッキントッシュユーザーの方々です。

    PC使用者全体におけるマッキントッシュユーザーの割合とは決して高くないのですが、それに比べて上記のブログ閲覧者数の割合とは、なかなか特徴的であると思いました・・。

    また、これは現時点においては単なる現象であり、その背後に如何なる原因、理由が存在するかは未だ見当がつきませんが、それでもなかなか面白い現象であると思っております。

    今後ブログ記事の作成を続けることにより、その原因、理由が分かってくるのかどうか分かりませんが、とりあえずは記事作成を継続してゆこうと考えておりますので、どうぞよろしくお願いします。

    また、それと同時に作成した記事がどのように読まれており、またどのような評価が為されているかということもなかなか興味深いことではありますが、これもさきと同様、未だ見当がつきませんが、少なくとも悪意的であると感じることはありませんので、まあ、とりあえずはこれで良いのではないかと思います・・。

    さて、本日においては何故か20151129に書かれた記事の閲覧者が多く、この記事の内容とは、昨年フランス、パリでのイスラム過激派によるテロ事件が欧米メディアにより「KAMIKAZE」と評されたことに基づいた対話形式のものでした。

    また、この記事においては米国による広島、長崎への原爆投下が為されたことに対して米国側からの謝罪が為されていない、また今後も為されることがないであろうと記しておりましたので、このブログ記事を記した時点(20151129)から、その情勢とはいくらか変化したのではないかと思います・・。

    そのように考えますと、私の書いたブログ記事も多少は世界情勢に言及しており、またそのことを現在このように記すことにより、世界情勢の推移を示しているのではないかと不図思いました。

    こうしたことを書きますと何だか夜郎自大、自意識過剰の感がありますが、同時にそういったことが継続的にブログ記事を作成していて「何だか面白いな」と感じるところでもあります・・(笑)。

    また、そのようなことを考えてみますと、どうも心理学者のユングが説いた集合的無意識あるいはヘーゲル等が説いた時代精神なるものが存在するのではないかとも考えさせられます・・。

    とはいえ、そういったものが存在するとしても、それを私がキチンと精確に認識出来ているかとは、全く別であり、まあ、先ず出来ていないのではないかと思います・・(苦笑)。

    しかしながら、ブログなどを含め、ある程度継続的に文章を作成してゆくと、時折、偶然でそうしたことを認識させる現象、考えさせる契機が生じることもまたあるのかもしれません・・。

    そして、それは子供の頃の鉄棒の逆上がりのように一度出来ると継続的に出来るようになるものであるのか、あるいはそうでないのか分かりませんが、とりあえず、そうした思考様式を持つ、経験したということにはなり、それはそれで少なくとも無益ではないものと考えます。

    また、もしかすると、かつて南方熊楠が述べた「萃点(すいてん)」、「やりあて」などにも通じる考えであるのかもしれません・・。

    ここまで興味を持って読んでいただいた皆様、どうもありがとうございます。

    また2カ月前の九州、熊本での大地震によって被災された地域の諸インフラの復旧そしてその先の復興を祈念いたします。

    20160613 文体の獲得の認識について・・

    本日も帰宅が遅くなってしまい、また生憎の空模様であったため「今日はすぐに休んでしまおうかな・・」と不図思いましたが、それでもとりあえず何かしらは書いてみようと思い、今現在日を越えて昨日のブログ記事の作成に取り掛かっております・・。

    そういえば、かつて読んだ中井久夫の著作の中で
    人は自身の文体を得る時は、はっきりとその瞬間を認識、自覚するものである。」と記しておりました。

    そうしますと「今現在の私とは果たして自身の文体なるものを獲得しているのであろうか?」と否応なく自問自答することになるのですが、これは今現在よくわかりません・・。

    かつて一時期(2012~2013頃)よくコトバ、文章が出てくる、湧いてくる時期があり、その後、スランプといっても良い私としては心身共に大変に辛い状態を経て、今現在に至っていることは分かるのですが、では、私はその何れかの時期において自身の文体なるものを獲得したのであるかとは、自身ではなかなか自覚、認識し難いのではないかと思います・・。
    あるいは私は相当鈍いのかもしれません・・(苦笑)。

    とはいえ、今現在に至るまでどうにかブログ記事といった形ではありますが、文章を書き続けることが出来ているという現状とは、昨年の今頃の時期から比べますと(自身としては)大した進化ではないかと思いますし、また、そのように考えておかないと、精神衛生上良くないと思います・・(苦笑)。

    しかし、それと同時に今後私の書く文章とは現在よりももっと分かりやすく明晰なものとなるのでしょうか・・?

    そういえば、昨年春に関西某所にて行われた勉強会に出席、発表した私に周囲の方々は「おそらく最近のAさんは理系の文章ばかり読んでいるのではないか?」といった意味のことをいわれました。

    たしかにその当時はそうでありましたが、同時にその時はこのような形で文章を書くことが大変困難であり、そこで用いたレジュメとは2~3行程度の短文を行を空け書き連ねているような感じでした。

    当時書いたレジュメがデータとして残っていれば良かったのですが、残念ながら今現在手元にありません・・。

    もしそれが残っていたらブログの1日分の投稿記事にはなっていたかもしれませんので、これは大変残念です(笑)。

    しかし、そこまで書いていて不図思い出したのは、かつて記していた日記です。

    この日記に関しては、つい先日ブログ記事にて少し取り上げましたが中にはイタイことも(少なからず)記されており、現在それを読んでみますと自身のことながら大変恥ずかしいです・・(苦笑)。
    とはいえ、今後またブログ記事作成が難航しそうな時は、そこから記事の題材を見つけてみるのは悪くないアイデアであると思います。

    また、同時に荷物箱の奥には和歌山在住時の日記も残っていると思われますので、今後如上の様な状態となりましたら、こちらもまた活用してみたく思います。

    とはいうものの、今現在においても私には文体の獲得ということがイマイチよくわかりません。

    今後書き続けてゆくことにより、多少なりともあるいは自分なりに分かってくるものなのでしょうか?

    ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。
    また2カ月前の九州、熊本での大地震で被災された地域の諸インフラの復旧、それに連なる復興を祈念しております。」


    2016年6月12日日曜日

    加藤周一著「日本文学史序説」上巻筑 摩書房刊 pp.176‐177より抜粋 20160612

    「記」・「紀」の伝える「古代歌謡」が人事、それも男女関係に集中していて、ほとんど全く「自然」を詠っていないことは、すでに述べた。
    「万葉集」の歌人たちが、主として人事と係るかぎりで、身辺の自然的環境を描き、大洋や高山や野獣の住む森に触れていないことも、すでにいった。
    れが8世紀中葉までの事情であった。
    9世紀の「古今集」の歌人たちは、決して新しい「自然」を発見したのではない。
    「万葉集」の歌人が、彼らの恋を託するために詠った花や鳥や風や月を、恋をはなれても、それ自身のために詠うようになったにすぎない。
    すでに「万葉集」の時代の職業的歌人、山部赤人には、そういう傾向が見えていた。
    なぜなら職業的歌人の日常的活動は、非日常的な恋の感情のみを動機としては、成り立つはずがなかったからである。
    「古今集」の歌人の多くは、四人の撰者の場合に典型的なように、多かれ少なかれ和歌を専門とした知識人である、しかもそこに「歌合」が加わり、その他の社交的歌作の機会が加わった。
    赤人の流儀が継承され、拡大強化されたのは、当然である。
    しかもその拡大強化は、宮廷と貴族社会―奈良時代よりもそれ自身規模を拡げてきたところの―内部でおこった。
    赤人は遠く旅をして、少なくとも彼自身の眼で道中の自然を見ていたが、「土佐日記」の貫之は、海路土佐から都に至る長い間に、都を恋い慕うばかりで、道中の自然に何らの注意も払っていない。
    貫之の眼には碧い海も、朝の太陽も、雨に煙る山々も、吹雪の荒れる野原も、見えなかったらしい。思うに、「日本的な自然愛」には注意する必要がある。
    少なくとも貫之が「自然」を愛していたということはできないだろう。彼が愛していたのは、都の春の水、都の花、その春雨、春霞、竜田山のもみじと秋風である。彼が春・秋の歌のなかでうたった花は、おどろくなかれ、六種類しかない(さくら、梅、山吹、おみなえし、ふじばかま、菊)。
    小鳥に到っては、二種類(うぐいすとほととぎす)。
    貫之が春を愛し、小鳥を愛していたとは考えにくい。
    彼は何を愛していたのだろうか。おそらく「自然」をではなくて、言葉をであろう。
    ほととぎすという鳥ではなくて、ほととぎすという言葉、物ではなくて、物の名。
    故に「古今集」は「物名」一巻(巻一〇)をたてていた。しかも貫之は「古今集」の歌人のなかの例外ではない。
    それどころか、撰者にして、しかも集中歌数のもっとも多い代表的な歌人である。赤人の場合にかぎらず、「万葉集」には旅の歌が少なくなかった。旅の風物を見ようとしなかった貫之の場合にかぎらず、「古今集」の専門的歌人たちは、旅の「自然」に関心をもってはいなかった。

    「日本文学史序説」上巻

  • ISBN-10: 4480084878
  • ISBN-13: 978-4480084873


  • 20160612 普遍的な知識と場の空気について・・

    A「おかげさまで昨日また1日の閲覧者数が1000人に到達しました。

    また、それに加え、精確な数ではありませんが、おそらく現在の時点(投稿総数322記事)で自身の作成したブログ記事が200程度になったのではないかと思われます。

    これが300記事となるまでブログ記事作成を継続するかどうかわかりませんが、とりあえずは閲覧者総数が10万人に到達するまでは継続してみようと思います・・。

    さて、首都圏では明日から天気が下り坂とのことですが、本日は気温も上がり、さながら夏のような陽気となりました。
    そして、このような陽気になりますと、私は和歌山や九州でのことを思い起こします・・。

    やはり、あちらは首都圏に比べ相対的に日射量が多く、特に夏の暑さとは、質的にこちらのそれとは大分異なっていたように思います・・。

    そのような環境の中でしばらく(数年以上)住むことになりますと、やはり様々な日常感覚、心身に変化が生じるのが自然なのではないかと思われます・・。

    そうしたことに関連して、我々日本人とは、こうした場所の変化に伴う、日常感覚、心身における変化というものに対して、どちらかというと鈍感であった(る)のではないかと思います。

    それは根本において我々日本人多くの生活文化基層が水稲耕作に基づくものであったからではないかと考えられますが、おそらくこうした鈍感さとは、今後も変わることなく、そして同時に真剣に考えるに値するものとして取り上げられることはない(少ない)と思います・・。

    それは結局のところ「狭い日本の国の中での地域、風土の相異なんて大したことはない。」といった、よくわからない同調圧力を基調とした理屈?に押し流されることになるのではないでしょうか・・(苦笑)?

    しかし、その一方において、同時に我々日本人は些細な相異に異様なまでにこだわることも多々ありますので、こうした何と言いましょうか理屈の背景にある価値観、感性の使いわけを、その場その場の空気によって(ほぼ無意識に)取捨選択(状況の表面的な操作)していることが多いのではないかと思われるため、結局のところ徹頭徹尾科学的な普遍性に基づく理系学問分野以外においては、どうも新しく創造的、普遍的な考え、およびその体系を生み出すことができないのではないかと思えます・・。

    また、そうした我が国の傾向、特徴とは、どうもここ最近の情報化社会の進化発展により、急速に海外に対しても知れ渡っていったようにも思えます・・。

    とはいえ、もしかすると、こうした問題は何も我が国だけの問題ではないのかもしれませんが・・。

    そして、そういった問題の根源あるいはその周辺に横たわっているものは一体何であろうかと考えた場合、一つにそれは「言語とその意味との精確な対応に基づいた会話、文章といったコトバの軽視」ではなかろうかと考えさせられます・・。

    ヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」が気になるところです・・。

    また、それは異なった視点から見ると中島敦の短編「文字禍」の背景にある考え、観念にも類似していると思います。

    また、これと類似した考えは小林秀雄が本居宣長の古事記を研究した際に思ったこととして述べておりました・・。

    さらに先日読んでおりました加藤周一著の「日本文学史序説」の中においても、それと類似したことを平安時代の和歌(主に古今集)での記述にて述べておりました。

    この部分はこれまでに抜粋引用していないようですので、今後機会を見つけ抜粋引用してみたいと考えております・・。

    ともあれ、ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。

    そして、さる4月の九州・熊本における大地震にて被災された地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧そしてその先の復興を祈念しております。」



    20160611 教養とは・・?

    ここ最近の1日のブログ閲覧者数は以前とあまり変わず300~500人程度ではありますが、時折1000人以上になることもあり、それがここ1カ月にて生じた当ブログにおける大きな変化であると思います。

    また、記事を書いている私からしますと、それ(閲覧者数が増えること)は大変嬉しく、ありがたいことではあるのですが、同時に「自身の書くブログの内容に関して多少なりとも気を付けなければならないな・・。」と感じさせます。

    そしてこの後者の感情とは実際のところあまりウレシイものではなく、どちらかというと重荷のように感じられ、文章を書く際においては「思うままに書く」ということを抑制させる効果を持っていると思われます。

    しかし、そうであるからといって「思うままに書く」というのは、率直ではあるのかもしれませんが、同時に様々な無用な障害、不利益をも生じさせるものでもあるため、やはり、こうした「重荷」ともとれる感情も私のような賢明とはいいかねる人間が公表する文章を記す際においては、必要なものであるともいえます・・(苦笑)。

    そして、そこまで書いて不図想起したことは精神科医で以前ブログにおいても数度文章を抜粋引用した、なだいなだがどこかの書籍に記していた「教養とは、何かを行う際、それを抑制する効果を持っている(教養が邪魔をする)。」ということです。

    このことから教養とは一見、様々な場面におけるすみやかな行動を妨げるものとして害悪視されそうなところではあるのですが、現在の世界でのあまり好ましからぬ社会的潮流および我が国でのそれを考えてみますと、それは、こうした要素(教養)あるいはその重要性の認識が社会一般において「欠落・欠如」していった結果ではあるまいか?とも考えさせられます・・。

    そして、こうしたことを考えてみますと、不図カズオ・イシグロ原作の小説を映画化した「日の名残り」(The Remains of the Day)を思い起こさせます。

    その内容につきましては、興味を持たれた方々は是非ご覧になってください。


    それはさておき、この「日の名残り」(The Remains of the Day)という作品を現在、このようなかたちにて思い起こすと、それに続きジョセフ・コンラッド著の短編「武人の魂」さらにバートランド・ラッセル著の「幸福論」などが思い起こされます・・。

    これら著作、特に後者に関しては興味を持たれた方々は是非読んでみてください・・。

    さて、これら著作の内容に関しては触れませんが、私がこれらの著作を想起して思うことは「我々人間とは、生きていく上において実利、経済的な利益あるいはそれをもたらす功利的精神も大変重要ではあるのですが、それと同時に、あまり日常的に取り上げられることのない、利益を伴わない名誉、良心、教養などといったものも前者と同程度の重要性、価値および心身に対する影響力を(特に長期的に見て)持っているのではないか?」ということですが如何でしょうか?

    ここまで興味を持って読んでいただいた皆様、どうもありがとうございます。

    また、さる九州、熊本での大地震にて被災された地域の今後の早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。」












    2016年6月11日土曜日

    20160610 320記事 出汁が具材に染込むとき・・形而上・形而下の現象

    A「おかげさまでこれまでに作成したブログ記事も320となり、その総閲覧者数も85000人に到達しました。

    今後どの程度ブログ記事の作成を継続するかわかりませんが、とりあえず1年分、365記事程度までは作成してみようかとユルく思っております・・。

    また、多く閲覧されるブログ記事とは、直近に投稿したそれと強い関連が示されるものであることが多く、これは大変勉強になり、ブログ記事を作成する際の大きな原動力となっております・・。

    とはいえ、ここ最近は(さきのブログ記事にて示した)歴史系の著作以外特に読んでおらず、また何か面白い小説でも探してみようと考えております・・。

    こうして考えてみますと、少なくとも私の場合、何か物語、小説などを読んでいる時期の方が、そうでない時期に比べ、自身のブログ記事の作成がスムーズになされるような感じを受けます。

    また、これまで一応300記事以上継続して作成することが出来た背景においても、同様のこと(物語、小説を読む)がいえるのではないかとも思えます。

    そして、さらには、これまでに経験した議論もまた、同様の効果をもたらしているのではないかとも思えます。

    そのように考えてみますと、これらの要素が複合的、相互作用的に存在していた時期とは、現在のブログ記事作成をどうにか可能にしている原因、根拠であるのではないかと思われます・・。

    また、それらを比喩的に表現してみますと、カレーや煮物などで、その具材に味がしみ込むのは、加熱している間であるよりも、加熱を止めた後であるといったことに類似しているのかもしれません・・(笑)。

    とはいえ、そこで大事なことは、それが「本当の熱」が加えられている(た)ということではないかと思います。

    それは我々日本人が古来より得意とする類感、感染呪術の進化発展の延長上とも見做すことが出来る「模倣」(のみ)によっては同じ効果を得ることが困難ではないかと考えます・・・。

    また、それと同時に如上のように類似したものとして物理的現象を用い精神的現象を「説明」することは出来るのかもしれませんが、それはあくまでも「説明」であり、効果をもたらす実効性を有するものではありません・・。

    そういった意味において即自的、対自的といったコトバの意味もまた多少深く理解出来るのかもしれません・・。

    そして、それは様々な国、地域において原初の時代より徐々に様々な文化、事物が発展を遂げ、繁栄し、そしてそれが衰退するといった歴史上に多く見られる普遍的な現象においても関連があるのかもしれません・・。

    とはいえ、それもあくまでもさきに述べたように「説明」であり、歴史上の微細な一主体的存在(個人)の典型的な社会における姿ではないのかもしれません・・。

    しかし、あるいはこのような思考経路を辿りがちであるということもまた我が国の特徴であるのかもしれません・・。

    そのように考えてみますと、何を為すにおいても、その主体性、能動性が重要であるのではないかと考えさせられます・・。

    しかし同時に、そうであるからといって、主体性、能動性とは、主体的、能動的、意識的に「模倣」をするということとはまた別ではないかと考えさせられます・(主体性の向かう先とでもいいましょうか・・?)。

    それ故、主体性、能動性を得るためには、何といいますか意識的な模倣ではなく「知らないうちに没頭していた」というような経験が「多く」必要なのではないか思いますが如何でしょうか?

    そして、そういったことを忘れ、ただ計量的データによる利害損得に基づき考え、意識化し、行動を決定するようになると、さきのブログにて引用したマックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の最終章のコトバがどうも想起されるのです・・(苦笑)。

    ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。
    また、さる四月の九州、熊本の大地震により被災された地域の早急な諸インフラの復旧そしてそれに続く復興を祈念します。」

    2016年6月10日金曜日

    20160609 過去の日記から・・

    本日もまた若干帰宅が遅く、今現在「はて、本日はどういったコトを書こうかな・・?」と思案中です・・。

    また、丁度今頃の季節とは、何かを記すには適していないのではないか?と不図思いましたが、そこから思い返してみますと、昨年のこの時期は、以前もブログ記事にて記した通り、自分の文章が書けないことで悩んでおり色々と試み、悪戦苦闘しておりました・・。

    たしかにあの時期に比べますと、現在は何かしら文章らしきものを書くことができるようにはなったのではないかと思います。しかしながら、さらに以前の文章を書くことができていた時期に比べますと、どうもイマイチのような気がしてなりません・・(苦笑)。
    しかし、であるからといって、ここで変に頑張り、根を詰め過ぎますと逆効果にもなりかねませんので、こうした時期はあまり焦らずにとりあえず何かしら書き続けることが重要なのではないかと思います・・。

    そして、そのようなことを考えているうちに、不図2013年に記した日記を取り出すことを思い起こし、それを読んでみますと、2013年のこの時期は、かなり精神的に病んでいたようであり、その年の6月9日とは日曜日であり、市電にて天文館まで出向き、照国神社の表参道沿いにあるドトールコーヒーにて当時の専攻研究分野の関連論文と共に村上兵衛著の「Japan:The years of Trial, 1919-52」を読んでいたようです。

    また、そこ(日記)には読んだ論文、書籍箇所の感想などが記されているようですが、ノートのその箇所が雨によりインクがにじみ、判読が困難な状況となっています・・・。

    また、更に頁をくだってみますと、そこから約一カ月後には学位審査があり、その数日前、別の地の大学院博士課程に進んだ知人から「闘魂」と記された鉢巻が送られてきたこと、および数人の方々から激励のメッセージを頂いたことが記されておりました・・。

    ちなみに、この鉢巻は学位審査時に懐に収めて臨み、そして現在なお保管しております・・。

    こうしたことから、やはり2013年のこの時期は私にとって何かが大きく揺れ動いていたのではないかと思われます・・(笑)。

    また、他の方々のそうした経験、時期のことを聞いてみますと、やはり何かしら色々と、おかしなことが心身に生じていたということです・・。

    ああいうのは一体どういった原因による現象であるのか、今現在を以ってよくわかりません・・。

    そして今後、自分なりにそういったことが理解できる、言語化して説明することが出来る日がくるのであろうか?とは、なかなか興味深い疑問でもあります・・・(笑)。

    とはいえ、ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。

    また、さる四月の九州・熊本での大地震によって被災された地域における生活諸インフラの早急の復旧、そしてその後の復興を祈念しております。







    2016年6月9日木曜日

    20160608 地下鉄にて・・

    A「本日は所用にて夕刻前(17:00頃)地下鉄に乗ることになりました。

    この時刻は帰宅の混雑は未だはじまっておらず、空席が目立ち、その中の一つに座り、ノートにブログの下書きを書きはじめました。
    それは「おそらく本日も帰宅は遅くなるであろう・・」と考えたためです。
    こうして何かしら書いておけば、帰宅後、ブログ記事の作成が多少速やかに行うことが出来るのではないかと思いましたが、残念ながら、そこで書いた内容とは、現在ここで記したいと考えている内容とはなかなか結び付かず、少し難儀しております・・(苦笑)。

    とはいえ、そこ(車内)で書いたことを少し取り上げてみますと、地下鉄の中で座っている方々の殆どがスマートフォンに向かい何かしてしていること、また、私のとなりに座った海外からの観光客(壮年男性)がいくつも付箋が貼ってある東京、京都の観光案内本(おそらくフランス語)を熱心に読んでいることが、なかなか面白い対照をなしているのではないかといった内容でありました。

    しかし、このようなことを現在書いてみても、さきに書いた通り、あまりその先の文章を展開させてゆこうとは考えないところもまた、なかなか面白いのではないかと思います・・(笑)。

    また、それと関連することとなりますが、ここ最近は特に週末に書く記事以外は、あまりノートに下書きをすることなく、即興にて作成していることが多いです。

    以前は一つ一つの記事に対し、下書きをしてから作成していたので、こうした変化とは、一面においては技術の向上、あるいは他面においては省略化、省力化とも見做すことが出来るのではないかと思います・・(苦笑)。

    そして実際、下書きをしてから作成した記事の方が内容的に深いものが多く、自分なりにひねっていたり、努力していることがうかがわれます・・。

    しかし、そうはいうものの、以前も当ブログにて記しましたが、かつて主流を占めていた対話形式の一連の記事とは、概ね実際の対話に基づいたものであるため、多少の「努力」や「ひねり」はあるものの、創造といった要素はあまり多くないと思われます・・(苦笑)。

    それ故、これまで一応300以上のブログ記事を作成してはきましたが、それでも私は小説家が書く物語のようなものが書けるなどとは到底思えません・・(苦笑)。

    そして、それがおそらく今現在の私の限界ではあるのでしょうが、その一方で小説、物語などを書かない著述家、随筆家などもおりますので、こうしたことはおそらく、各々の性質に合ったところに自然とおさまってゆくものなのではないかと思います・・(笑)。

    とはいえ、私はこの先、文章を書いて生活してゆくことが出来るとはあまり考えておりません(当たり前ですが)。

    しかしながら、私の場合、このブログ形式でも、何かしら書き、発信し続けないと「マズい」と強く思うところがあるため、これまで何かしら書き続けているのです・・。

    そして、その「強く思うところ」の原因がこれまた以前ブログにて記した「学位の持つ毒」です・・。
    これを読まれている方々は「そんなもの本当にあるのだろうか?」と思われるかもしれませんが、私の実体験からしますと、それは心理、精神的な部分が殆どであると思いますが実際に存在すると思います・・・。

    そしてそれは、少なくとも私のような本質的に決して、あるいは到底勤勉とはいい難い人間(笑)が300程度のブログ記事を概ね連投気味で書き続けさせる程度の重みがあるのではないかと思います・・(笑)。

    また、今現在、私はその重みを十二分に支えられているとも考えておりませんので、今後もうしばらくは書き続けなければダメなのかもしれません・・・(苦笑)。

    しかし、それでも私などは随分と異なった学問分野を横断してきましたので、悪い意味ではなく、こうした形式(ブログ)の発信が相応、似つかわしいのではないかとも思います・・。

    ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。
    そして、さきの九州・熊本での大地震により被災された地域の諸インフラの回復、復旧そして今後の復興を祈念しております。」

    2016年6月8日水曜日

    20160607 気候風土と地域文化について・・

    A「本日も若干帰宅がおそくなり、今現在、日をまたぐ少し前にブログ記事の作成をはじめました。

    ここ最近は気温も徐々に上がってきておりますが、本日は雨模様の天気にて気温はあまり上がりませんでした。

    また、この時期になりますと、何故だか九州でのことを思い出します・・。
    あちらの気温は北部の福岡などの場合、首都圏とあまり変わらないことも多いのですが、それだけではない、何か地域的な風土もまた、その体感的な過ごし易さに影響を与えているのではないかと思われます・・・。

    また、それは南の鹿児島においても同様ではあるのですが、鹿児島までいきますと、明らかに平均的な気温も首都圏などより高かったと記憶しております。

    そして、こうした各々平均気温などに地域固有の気候風土などが加味されますと、おそらく、そこで生息することが可能な細菌の種類などにも影響を与えるのではないかと思います。

    それ故、科学的なバイオ技術が進化発展する以前の時代においては、そうした地域性、風土とは、醸造、蒸留技術などに対しても強い影響力を持っていたのではないかと思われます。

    そして、そうしたことから特に南九州地域において有名な「焼酎」も生み出されたのではないでしょうか?

    また、先日来から当ブログ記事にて幾度か取り上げている野上彌生子著の「迷路」の設定においても主人公の実家家業が醸造業となっており、度々作中にて取り上げられるその描写には、なかなか興味深いものがあります・・。

    また、この野上彌生子の例も含め、我が国においては醸造業を営んでいる家の多くが文化人、芸術家そしてまた地域文化における指導者、政治家などを生み出してきているということは、なかなか興味深いことではないかと思われますが如何でしょうか?

    しかしまた、こうした現象?を唯物論的あるいは構造主義的に考えてみますと、それはそれでなかなかキレイに論理的な説明が為されないこともないのですが、その一方において「では、果たして全てが全て、そうした論理にて片付けることが出来るのであろうか?」とも考えさせられるのです・・。

    こうしたことを一例として考えてみますと、ナマの現象を論理にて切り分けてゆく難しさが示されるのではないかと思います・・(笑)。

    そしてまたさらに、さきに示した現象と特に近代以降の我が国において盛んに研究が為されている細菌、微生物、バイオ系の学問との間には何かしら関係性、親和性があるのではないかとも考えさせられるのです・・。

    現在、我が国(特に都市部)において殺菌、滅菌といったことが盛んに取り上げられているようですが、こうした傾向が行き過ぎると、もしかすると、古来よりの我が国の風土、特性といったものをも損なう可能性もまたあるのではないかと考えさせられます・・。

    しかしながら、一方において、殺菌、滅菌などを含めた公衆衛生観念の向上が様々な病気による死亡率あるいは乳幼児、高齢者の死亡率をも低下させたともいえるのですが・・。

    それ故、こうした問題とは、なかなか白黒つけることが難しいものであるのかもしれません・・

    また、ハナシは変わりますが、先日来よりのブログ記事の閲覧状況を見てみますと、そこからまたよく読んでくださっている方(方々)がいらっしゃるのではないかと考えさせられます・・。

    何れにしましても興味を持って読んでくださっている方々のお蔭でここまで書き続けることができております。
    ここまで興味を持って読んでくださってどうもありがとうございます。

    また、去る九州・熊本での大地震によって被災を受けられた地域における諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」




    2016年6月6日月曜日

    20160606 神妙めいた独白の由来・・

    本日も若干帰宅が遅く、現在もPCを前に「はて、本日は何を記事の題材にしようかな・・?」と思案中です。

    このように思案をしていて、そのうちに良いアイデアが出てくれば良いのですが、毎回のように、ことはそう簡単には運んでいってはくれません・・(苦笑)。

    そう考えてみますと、睡眠時間というものはなかなか重要なものではないかと思います・・。

    これまでにブログ記事を作成してきましたが、概ね良い記事であると自身が感じることができるものは、ある程度睡眠時間をとっている日のものが多いのです。

    しかし、決してそうとはいえない状況のもとで書かれた記事であっても、そのなかには良いと思われるものも混ざっていることがあるのではないかと信じ、今回もブログ記事を作成しはじめた次第です・・(苦笑)。

    それよりも、投稿ブログ記事が300を越えた現在においても特に大きな行き詰まり感を感じず無事に記事を書き続けることが出来ていることは、なかなかありがたいことであるのではないかと思います。

    その一方、何故私はこんな金銭的利益にもならないここうしたブログを記し続けていているのでしょうか?

    おそらく人によっては「そんな価値のない、よくわからないくだらないことをしていないで、もう少し睡眠時間を増やす努力をしてみたらどうだろうか?」などと考えられる方々もいらっしゃるのではないかと思います・・。

    また、私自身ももう少し睡眠時間が欲しいと思うことがありますが、しかしそれはブログ記事の作成とは別のことではないかと思います・・(果たして本当にそうなのであろうか?)。

    あまり頑なになりすぎるのも如何なものかと思いますが、一方において、ここまで一応ブログ記事を継続的に投稿してきた背景には、多少の無理もまた存在していたのではないかとも思います。

    そうした意味において、ブログ記事を継続して作成するためには、何と言いますか、一種のバランス感覚らしきものが必要なのではないかと考えさせられます・・。

    また、それと同時にあまりムキにならない、先を急がないことが重要ではないかと思います・・。

    そして、こうしたことは実験、研究、読書などともある程度共通するものではないでしょうか?

    とはいえ、現在の投稿ブログ記事数もたかだか300ばかりですので、この段階では、あまり如上のやうな大風呂敷を広げない方が良いのではないかとも思いますが・・・(笑)。

    また、その一方において「私の作成しているこのブログとは果たして如何なる方向に向かっているのだろうか?」と最近になり不図考えてみることがあります・・・(笑)。

    このようなことを書きますと、何故だか書籍からの抜粋引用をしてみたくなります・・。
    こういったことは、おそらく私の弱さに少なからず由来しているのではないかと思います・・(笑)。

    また、こうした「神妙めいた独白」について考えてみますと、どうもシェークスピアの「マクベス」「ジュリアス・シーザー」などの登場人物達の想念の独白、あるいは我が国でしたら木下順二の「子午線の祀り」における平知盛のそれを彷彿とさせます・・(笑)。

    そのように考えてみますと、こうした劇、脚本における表現の仕方とは生身の人間の想念に順った結果、生まれ出た表現方法であるのかもしれません・・。

    あるいは私がそれら著作を以前に読み、半ば無意識ながらその表現方法を真似しているだけであるかもしれません・・(苦笑)。

    そういえば、先ほど出ました木下順二作の「子午線の祀り」は「平家物語」をベースとした劇の脚本であり、かなり面白いと思われます。
    こうした劇、脚本に興味ある方々は一度読まれてみては如何でしょうか?

    しかし、それはさておき、少し前の我が国においては自国の古典に基づき、こうした劇、脚本が作られていたことに多少の驚きを禁じ得ません・・。

    また、以前も当ブログ記事に記しましたが、作者である木下順二は熊本県熊本市に出自を持っております・・。
    さきの九州、熊本での大地震により被害を受けた地域の今後の復旧、復興を祈念いたします。

    また、ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。





    2016年6月5日日曜日

    20160605 ブログ閲覧者数の推移について・・

    A「おかげさまで昨日再度ブログの閲覧者数が1000人に達しました。
    そういえば、つい先日、投稿記事数が300を越えたのですが、もしかすると、そういったことが何かしら影響しているのかもしれません・・。

    とはいえ、作成している記事のクオリティーなどは以前とあまり変わっていないと思いますので、一体どのようなことが作用してこうしたこと(1日の閲覧者数が1000人を越える)が生じたのか、いささか不思議に思うところでもあります・・(笑)。

    まあ、記事を作成している私からすれば、それは嬉しいことではあるのですが・・。

    しかし、次に閲覧者数が1000代から10000代に行くまでは相当大変であると思いますので、これはまあ「そこまで到達すればラッキーですね(笑)。」といった、どちらかというとユルい感じで今後記事を作成し続けようと考えております・・。

    また、考えてみますと投稿記事数が300に到達したのもつい最近でしたので、その後あまり意識しないうちに10記事以上作成していたことになります・・(笑)。

    そうしますと、次に目指すのは400記事の投稿ということになりますが、おそらくそれより前に閲覧者数が10万人に到達するのではないかと思います。

    具体的には、今現在、閲覧者数が8万人以上ですので、このまま順調に行けば今後2カ月程の間に10万人に到達するのではないかという目論見です。

    閲覧者数が10万人とは、随分スゴイものだと以前(丁度一年前の私)でしたら考えるところですが、現在それが現実感を持っているというのは、大した変化ではないでしょうか・・?(笑)。

    とはいえ、まだこの先に気が変わることも十分にあり得ますので、まあ今後もあまり気負うことなく記事を作成、投稿し続けて行きたいと考えております・・。

    これまで興味を持って一連の記事を読んでくださった皆様、今後もどうぞよろしくお願いします。

    そういえば、つい先日投稿した医療職関連の記事はおかげさまで通常より閲覧者が伸び、そのことから、これは悪くない内容であったのかもしれないと不図思いましたが、それでもあまり欲を出さず、見せずに自身の興味を持った内容のみを書いてゆこうと思います・・(笑)。

    また、同様に先日投稿した医療職関連の記事に関係があるのかもしれませんが、以前大学図書館にて見つけ興味を持ち、その後購入し、さらにその後、博士課程に進学する知人に進呈した中央公論社刊の日本の近代シリーズの一冊、竹内洋著の「学歴貴族の栄光と挫折」を昨土曜日に神保町の古本屋にて程度が良く安価なものを偶然見つけ、しばらく迷った挙句購入しました。
    これはまた機会を見つけ、ゆっくり読んでみたいと考えております。

    そういえば、今現在ゆっくり読みたい著作といえば、みすず書房より刊行されているバートランド・ラッセル著の「西洋哲学史」全三冊(出来れば原書をも含め)と英訳版の野上彌生子著の「迷路」といったところでしょうか・・。
    また、さらに付け加えさせていただくならば、今後、再度そうしたことが職務にて役に立つ、生かすことのできる職に就きたいと考えております・・。
    とはいえ、今後しばらくは現在の職務に励もうとは考えておりますが・・。

    今回もここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。
    そして去る四月半ばの九州、熊本における大地震にて被災された地域の早期の諸インフラの復旧そしてその後の復興を祈念しております。」