2016年3月3日木曜日

20160302 歴史力・予言力と合理性?・・

A「相変わらずブログを続けているようですね。
あと、最近閲覧者数も増えたようで良かったですね(笑)。


B「・・どうもありがとうございます。
お陰さまで、最近閲覧者が増えましたが、しかし、これはこれでプレッシャーらしきものもありますよ・・(苦笑)。また、求職活動でも相変わらず動いておりまして、昨日も夜半に応募書類を作成し、一番近い24時間空いている郵便局まで行き、発送してきました・・。そういえば、ここ最近数ヶ月は応募書類を発送する際に心の中で「頼むよ神様、こんな人生だったんだ、どうか幸せな夢を見させてください・・」と心のなかでつぶやくようになりました(苦笑)。ともあれ、今後また何か動き、変化がありましたらお知らせいたします。」

A「・・・そうですか、わかりました。
そういえば、これまでBさんが作成した対話形式のブログ記事での登場人物で「これは私のことかな?」と思える人物が出てきますが、あれは何人かそのモデルの方々がいるのですか?」

B「ええ、そうです。私のブログ記事での登場人物は概ねA、Bですが、このうちの片方は私自身がモデルであり、他方には、そのモデルの方が何人かおります。とはいえ、この登場人物キャラクターとは、そのモデル一人一人から抽出したものではなく、毎回それらを適宜複合、合成したものとなっています。まあ、それでも、さきほどのAさんと同様、モデルとなっている方々は読んでいらっしゃれば「これは多分、私のことかもしれない・・。」となっているのではないかと思いますが・・。」

A「はあ、なるほどねえ・・。何だかそうしたキャラクターの表現、書き方とは「記紀」に描かれているスサノオ、オオクニヌシ、ヤマトタケルのようですね・・。それは編纂者から見て類似したような複数の人格を一人の人格にまとめ上げて物語の登場人物とすることです。しかしまあ、こうしたことは、おそらく世界各国の神話、伝承などにおいて類例が少なからずあるのではないかと思いますが・・。」

B「・・なるほど、それはこれまでに気が付きませんでした・・。また、たしかにそういわれてみますと、ほぼ無意識ではあったと思いますが、そうした要素はあるかもしれません。そうしますと、私はそれを知らずに「記紀」あるいは、その他の神話、伝承のような表現方法、書き方を採っていたということになるのですね・・(笑)。それに加えて、こうした経緯の可能性を示唆されると「そのようなことは、ある程度合理的に考えれば、大体共通した方法を採るであろうから、まあ当然といえるのではないか。」と考えるか、あるいは「そうした時間・空間を越えた共通、類似性の間には何らかの原因、あるいは関連性があるのだろうか?」と考えるかにより、その後の考えとは、ずいぶん変わってくるのではないかと思います。そして、一般的な意味における合理性に基づいて考えると、おそらく前者の考えに近いものに落ち着くことが多いのではないでしょうか?」


A「・・うん、まあ多分そうでしょうね(苦笑)。さきほど私も自分の思ったことをいったわけですが、それに対してBさんからそのような反応がくるとは思っていませんでした(笑)。
しかし、多分、おっしゃる通りこうしたことは案外重要ではないかと思います・・。
たしか柳田國男がそうした能力のことをどこかで「予言力」と書いていたように思います・・。「予言」といいますと非科学的であり「怪しい」と思われそうですが、それは過去の歴史に対する様々な深い理解、知識に基づいた、これから起こる出来事への理解および対応の仕方ともいえるのではないかと思います・・。我々日本人のこうしたことに対する認識、理解の仕方については、かねてより多くの研究者、著述家が記しておりますが、全体的な傾向としては、たしかにBさんの仰る通り、まあ、前者つまり合理性に基づいてなされているのではないかと思います・・。とはいえ、この「予言力」とは、前者的な考え方も重要でしょうが、おそらく後者的な考えを思考の熱により煮詰めることによって精製、生成されるのではないでしょうか?」

B「・・はあ柳田國男が「予言力」と記していたのですか・・。また、そうした考えとは、今現在の様々な情報が錯綜して存在している我が国であるからこそ特に重要であるのかもしれません。加えて、さきほどAさんが私のブログ登場人物キャラクターに関して指摘されたことは、一種の「抽象化」であると思います。そして「様々な歴史的出来事に対する抽象化の仕方の傾向」などにおいても国あるいは地域毎に特徴があるのかもしれません・・。」

A「・・ええ、そういったことは、たしかにあるかもしれませんね。また同じ国、地域などにおいても、時代が変わるとそうした傾向はまた変わってくるのではないかとも思います・・。これはブログの文章を書く際においても同様であるかもしれませんが、どういった深度あるいは高度から事象を眺めるかによって、眺望が異なり、それにより書く文章も変化してくると思いますので、時代、国、地域における「抽象化の仕方の傾向」の相違とは、そうしたことに因っているのではないかと思います。そして、そうした「眺望」が何故、その時代、その場所において成立したかということを考えてみるのもなかなか面白いのではないでしょうか(笑)?」

一連の私のブログ記事を読んでくださっている方々、どうもありがとうございます。


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