2015年12月14日月曜日

大西巨人著「神聖喜劇」第一巻 光文社刊pp.221-223より抜粋

私の「学生一般の精神には、「永遠の形而上的憂愁」か「世界苦」か、「シェストフ的不安」か、あるいは「時代閉塞の現状にたいする慨嘆」か、何か名状しがたいような物の鬱憤がある。」という少々気取ったような科白は、それでもたぶんたいてい事実に叶っていたであろう。
また私の「そういう鬱憤は、いつどんな小さなことでも契機にして爆発するかもしれないのですよ。」といういくらか示威的な言いぐさも、たぶん多かれ少なかれ事実に叶っていたであろう。

しかしそういう鬱憤は、何者かの「マルクス主義的策動」ないし「左翼的アジ・プロ」類による組織的・団体的・連帯的爆発への具体的可能性を概して持っていなかった。

生徒主事が言ったようにたしかに「その後(1931、2年以後)時代は大きく変換し」ていた。
そういう鬱憤が孕んでいたのは、むしろ主としてそれがたまたま個人的・孤立的・亜流ラスコーリニコフ的異常行為へ爆発することの具体的可能性であった。
如上の状況一般と、たとえば当時ある人文主義的思想家(谷川徹三)が青年学生(の教養問題)に関して「ニヒリズムの無関心」、「デカダンスの痙攣」などの語句をも用いつつ書いた一批評文章中の次ぎの部分などとは、内容上おおかたたがいに見合っていたのである。

新しい文化の可能が指示されている。新しい文化理想が掲げられている。そこから在来の個人主義的教養が蔑視せられるのである。さういふ意志と情熱とに生きる者にとっては教養は有閑的な社交的装飾的なものと考へられるのである。
それは生活の必需品ではない。食べられない人が沢山いる時そんなことは問題ではない。

フランス革命の当時、展覧会出品の絵を前に一市民が、それらの作品の「革命の偉大な原理を十分に表現していないことを遺憾とし」更に「彼らの兄弟達が祖国のために血を流しているその時に彫刻に従事しているとは一体何といふ人達であらう!」と嘆いたことをかつてプレハーノフの本で読んだがさういふ感情である。
そこからしてまた当時の一愛国者は、最もよい画家は国境に於いて自由のために戦っている市民達であることを熱心に証明しようとしたといふが、この感情が文化否定となり教養否定となるのである。
数年前われわれの国の若い人達の間にもこの感情を私は見た。

今日(1936年)も尚ほかういふ感情はどこかに何かの形で生きているのであらう。
従って若い人達に教養がないといふ場合には、彼らに教養への意志がない場合のあることを知らねばならない。
彼らは、できないのではない、しないのである。他の情熱と意志によって教養への意志を塞がれているのである。
最近あらためて教養の問題が取上げられているのはそれに対する反動であらう。
歴史的事実としてもフランス革命やロシア革命の直後に於ける文化否定的言動はやがて訂正された。
さういふ大きな情熱と意志とによって教養への意志が塞がれることさへ必ずしも正しくないとすれば、さういふ大きな情熱と意志とのない教養蔑視は一層正しくないであらう。
現代の青年達の示している虚無的な感情には、青年の理想家的情熱の凡て塞がれている鬱屈から由来したものがあるにしても、その表れ方に人々は好意を示さないのである。
それをもってわれわれの国にヒューマニズムの堅い地盤の欠如しているためと考へている者がある。
私もまたそれに賛する者であるが、この見地からすれば今日あらためて教養の意義が説かれなければならない。

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