2015年10月19日月曜日

20151002 迦微、神、カミについて・・

A「最近何か新しいことはありましたか?」

B「ええ、今のところ、特に新しい動きはありませんね、一方で、つい先日ブログの一日の閲覧者数が200を越えたのは少し嬉しかったですね()。」

A「はあ、200越えはちょっとすごいですね・・。
読んでくれている方が増えているのでしょうかね?
あと応募されている職種の勤務地はやはり首都圏が多いのですか?」

B
「ええ、首都圏での応募職種もいくつかありますが、大体はそれ以外ですね。私は概ね首都圏にて育ちましたが、その後様々な地域にてある程度の期間住んでおりましたので、今となっては別に首都圏でなくとも一向に構わないのです・・。
ただ、それと同時に思いますのは、自分が適応し易い地域と、そうでない地域があるのではないかということですね。」

A「ああ、そういうのは確かにあると思います。
一般的に若い頃は適応力や柔軟性があって、様々な地域にある程度容易に溶け込めると思うのですが、多分30歳くらいあたりから、徐々にそういった能力が喪失、衰えてゆき硬化していくのではないでしょうか?
物質にたとえるとおかしいかもしれませんが、骨や歯みたいな感じではないでしょうかね?
ですから私も正直なところ今となっては、あまり他の地域には移り住みたくはないです・・。」

B
「ああ、そういう感覚はよくわかります。
ですから、現在応募中の職種も大体これまで住んだ場所に近いところのものが多いです。
しかし事情も事情ですのであまりゼイタクもいってられないのですが・・(苦笑)
ただ、何でしょうかね、古くから他の地方、地域に行く時に「水に気をつけろ」などと云われますが、ああいうのは個人によってその反応が異なるために普遍的な一定の見解は見出しにくいのでしょうが、多分、地方、地域の水、大気、土壌などの中に人の心身に影響を与える何かが存在することを示しているのではないかと思います。」

A
「ええ、確かにそういうのは一つの地域にずっと住んでいたのではわからないと思います。
ですから、そういう「実感」とは、ある程度年齢を重ね、他の地域に住んでみないとわからない相対的な感覚であるのかもしれませんね。」B「それは仰る通りであると思いますが、同時にその「実感」というものが科学的な視点から見た場合、案外間違いであったり、単なる思い込みであったりするらしいのです()。しかしそれでも「実感」とは科学的な認識のために必要不可欠な第一歩目でもあるとも思いますが・・。」

A「ええ、それは以前のBさんのブログ、たしか20150804で書かれていた文系、理系そして儒家、墨家との関係の前段階に近いものではないでしょうかね?あとは少し前に投稿されたベルクソンの「哲学的直観」からの抜粋文にも似た様なニュアンスがあるのではないかと思います。」

B「確かに仰る通りです。
そこまで考えておりませんでしたが・・。
ともあれ、科学的な方法、つまり実験、観察等により得られたある程度普遍的な方法による見解とは、こと神、神々の存在について応用してみますと、ややこしくなるのではないかと思います。
しかしながら、そこを曲げて敢えて、神々の存在と、これまでの話を重ね合わせてみますと、このようなことが云えると思います。
先日抜粋引用した小泉八雲著の「日本の心」にて「古びた神社などには人の心に聖性、神性を惹起させる何かがある。」といった意味のことが書かれていました。
たしかに私自身はその感覚をよく理解できます。
そして同時にその感覚は、多くの方々が共感されるのではないかと思います。
そして、そこから更に進んで、では、その聖性、神性を人々の心に惹起させる原因の実体とは何であるのかと考えてみますと、
それは、さきほど出ました地方、地域の水、大気、土壌などの中に含まれる人の心身に影響を与える何かではないかと考えるのです。
そして、それら水、大気、土壌に含まれる心身に影響を与える何かとは、当然ながら微細なものであるとは思いますが、それが生物、細菌の様な働きによるものであるのか、あるいはMEMSの様な機械的な働きによるものであるのかは分かりません。
しかし何れにせよ、古くから日本における神々とは、少なくとも一面において、この様な微細ながらも大きな働きをする何かであると認識されていたのではないかと考えます。
これは本居宣長の「古事記伝」においてもカミのことを迦微(かみ)と記されており、その漢字、文字から、その様な意味があるのではないかと考えさせられます。

A
「ははあ、それで思い出しますのは、以前私がどこかで聞いた日本におけるカミの語源とは、酒の醸造などの醸す(かもす)と同一であるという意見ですね・・。
そしてこの醸す(かもす)の醸造も発酵という微細な菌の働きによるものですから、まあ先ほどのBさんの仰った内容とも似ているのではないかなと思います。」

B「ええ、それに日本国内で時折聞かれる地名の加茂(かも)もこれと同じ起源ではないかと思います。
この言葉、音は、多分水稲耕作が始まった弥生時代の社会において何かしら意味するものがあったのかもしれません。
ですから、この加茂という地名を持つ場所では鐸が出土したり、日本酒の醸造が古くから行われていたりします
こういうのは単なる偶然だけでは片付けられない何かがあるのではないかと思います・・。」


A「なるほど・・。
それにしても、そういった小さなものが大きな働きをするという古来からの考えは、その後、物語として「一寸法師」になったのかもしれませんね・・。
そして、そのように考えますと、日本とは山林面積が多く使用可能な国土が狭小なために、何でも多収穫という明確な目的に基づく、小型化、集約化が為される傾向があるというのを会田雄次あとは李御寧の著作で読んだ記憶があります。」

B「ええ、それらの著作は私も以前読んだと思います。ともあれ、日本人のこうした小型化、集約化の傾向、執念はほとんど無意識のレベルにまで達しており、よくよく考えてみますと教育においてもこの様な傾向があるのではないかと思います。
しかし、教育とは、特に高等教育においては、根本的に工業製品を製造するのとはワケが違うのですから、今後何と云いますか背景思想における相変態が為される必要があるのではないかと思いますが、どうなのでしょうか?」

A「うーん、それは大変難しい問題であると思いますが、同時に仰ることの意味もよく分かります・・。
いずれにしても文系がカギであり、また、同時にBさんがコンラッドの「闇の奥」が好きな理由もそこらへんにあるのではないかと思います・・。」







0 件のコメント:

コメントを投稿