2024年4月19日金曜日

20240418 株式会社ミネルヴァ書房 岩間陽子・君塚直隆・細谷雄一 編著「ハンドブック ヨーロッパ外交史 ウェストファリアからブレグジットまで」 pp.58‐60より抜粋

株式会社ミネルヴァ書房 岩間陽子・君塚直隆・細谷雄一 編著「ハンドブック ヨーロッパ外交史 ウェストファリアからブレグジットまで」
pp.58‐60より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4623092267
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4623092260

十四世紀以降バルカン半島を支配していたイスラム王朝のオスマン帝国は、宗教共同体(ミッレト)を基盤とした統治制度を敷いていた。しかし、フランス革命後バルカン半島にも西欧から「ナショナリズム」概念が入ってくると、バルカンの非ムスリムは各地で自治権獲得の運動や、独立運動を展開した。その結果、ギリシャ、セルビア、ルーマニア、モンテネグロは十九世紀中にオスマン帝国から独立し、ブルガリアは自治権を獲得した。各国は、「同胞民族」と見なす人々が国境の外に依然として存在すると主張し、「同胞民族」の居住する地域の獲得を目指した。獲得すべき土地があったのはオスマン帝国であった。また、多民族国家であるオーストリアの南部地域もバルカンの民族国家は狙うことになる。

 オスマン帝国領ボスニアは一八七八年のベルリン条約によりオーストリアの施政権下になっていた。一九〇八年にオスマン帝国で青年トルコ革命が起こり、ブルガリアが独立を宣言すると、オーストリアはボスニア併合を宣言した。ボスニアの獲得を目指していたセルビア国内では、政府やメディアが反墺的主張を展開し、多くの民族主義団体が組織された。その中には、青年ボスニアとも関係を持つことになる「統一か死か」(通称か死か」(通称「黒手組」もあった。

 バルカンのオスマン帝国の獲得を目指しバルカン同盟を締結したセルビア、ブルガリア、ギリシャ、モンテネグロは、一九一二年一〇月、オスマン帝国を攻撃した(第六次バルカン戦争)。その戦争の局地化を目指して外向的介入を行ったヨーロッパ諸大国は、国際会議を開催し、オスマン帝国領マケドニアを同盟諸国に譲渡する一方、オスマン帝国領アルバニアを独立させることで一致した。後者を強く主張したのが、オーストリアとイタリアであった。アドリア海に面するアルバニアの獲得を目指していたセルビアは、強く反発した。第一次バルカン戦争終結後に、今度は、バルカン同盟が獲得したマケドニアの分割をめぐって同盟内で対立が発生した。一九一三年六月、ブルガリアがセルビアとギリシャを攻撃し、第二次バルカン戦争が勃発した。しかし、ブルガリアは反撃されただけでなく、第一次バルカン戦争で戦ったオスマン帝国、さらには中立を保っていたルーマニアからも攻撃された。そのためブルガリアは敗北し、第一次バルカン戦争で獲得した領土の重要な地域を喪失した。他方、二つのバルカン戦争によって、セルビアの領土は二倍となった。セルビア内外でのセルビア国家の威信は否応なしに高まった。これは、オーストリアにとって致命的な問題であった。

 また、オスマン帝国の勢力がバルカンから駆逐されたことによって、セルビアとルーマニアの次の領土獲得の対象がオーストリアであることは明らかであった。ボスニアを含むオーストリア南部のセルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人の一部には隣国セルビアとともに、南スラヴ国家(=ユーゴスラヴィア)建設を目指す動きもあった。セルビア国内にも同様の考えを持つ者がいた。オーストリアの政策決定者にとって、この南スラヴ運動は、国家の解体を意味したので、セルビアは不倶戴天の敵であった。ウィーンには、外交的手段ではもはやこの問題を解決することはできないとの考えが充満していった。そのような時に、サライェヴォで暗殺事件が起きたのであった。

2024年4月17日水曜日

20240417 和歌山大学経済学会 経済理論 別刷 第415号 2023年12月 阿部秀二郎 著「ケアンズの価値論の背景-ジェヴォンズの価値論の背景に注目して-」pp.7‐9より抜粋

和歌山大学経済学会 経済理論 別刷 第415号 2023年12月 阿部秀二郎 著「ケアンズの価値論の背景-ジェヴォンズの価値論の背景に注目して-」pp.7‐9より抜粋

第2章 ケアンズの価値論

第1節「中間原理」

 ケアンズの価値論が明確に指示されているのが1874年に出版された、「経済学の主導的な原理」であろう。

 本章では、第1章で指示したケアンズの原理(理論)と事実(データ)との関係について見ていこう。

 この原理(理論)と事実(データ)の融合こそが、「経済学の主導的な原理」の目的であった。導入部分でケアンズは、当時、多くの経済学の新たな動向が存在していることを認識しながら、自身の研究が「スミス、マルサス、リカードウそしてミルの労働によってつくられた科学の態度」の延長線であるとする。具体的にケアンズが同一であるとする内容は、人間の性格や経済科学の究極的な前提を構成する自然の物理的条件に関する仮説である。そしてそれらの前提と事実から導入された結論もスミス以降の経済学者のものと異ならないとする。

 一方でケアンズは究極的な原理と結果としての事実との結びつき自体は間違っていないと信じ、その結びつきを説明する原理に問題があるとしており、その説明原理の適切性の必要を説く。

「彼ら(スミス、マルサス、リカードウ、ミル:訳者)と意見が異なる点は、ベイコンの言葉で「〈中間原理(axiomata media)〉」と呼ばれるものである、この中間原理によって、詳細な結果が生み出される高度な原因が説明される。…現時点で一般的に受け入れられている経済学のこの部分における間違った素材はない。そして現在のすべきことは、現在の批判に耐えることができるように、弱い要素をより良い要素にできるだけ替えていくことである。」                       (Cairnes [1874]1)

「中間原理」は、方法論に関するケアンズの書「経済学の性質と論理的方法」で指摘されている。その指摘を利用して、ケアンズが原理をより良いものにしようとしていたことについて説明する。

 書の第3講「経済学の論理的方法」で、ケアンズは社会科学と自然科学の方法を比較する中で、社会科学が自然科学に対して、相対的な利益を有する部分もあると指摘している。(Cairnes[1888]81)それは自然科学は法則を成立するのにとても長い時間を要するのに対して、「〈経済学者は知識や究極的な原因からスタートできる〉」(Cairnes[1888]87)からである。

 経済学では次のような他の科学から得た具体的な事実を利用できるのである。心理的な感情、動物的な性向、生産を支える物理的条件、政治制度、産業上の状態、などであり、これらは他の科学の分野が生み出した結論なのである。

 ケアンズはベイコンの「諸科学の成長(De Augmentis Scientiarum)」やヒューウェルの「帰納科学史」などを利用して、自然科学の歴史的展開について説明する。人間は問題をそのまま未解決にすることを好むのではなく、固定的な概念を、長時間の考究の上で獲得したがるものであり、複雑な現象に対する究極的な原理を古代から想定してきたと説明する。

 タレス、アナクシメネス、ピタゴラスなどの哲学者により、観察に基づき究極的な原理が考えられてきた。その際に用いられた方法は帰納法であり、その方法こそが自然科学の考察の土台であった。そして帰納法に基づき推測された結果と事実との整合性に関する長い調整の結果として確実な前提が得られるようになるとともに、演繹法が確実に影響力を発揮するようになってきたとケアンズは指摘する。

「演繹的推論での発見の成果として・・・高度な原理と経験との結びつきを媒介する多くの原理(中間原理:筆者)が存在した。物理科学の進歩は、アルキメデスや古代の思想家がなしたことにも関わらず、ガリレオと同時代人が主要な動的原理を確立するまでは、歩みが遅かった。しかし一度確立されると、・・・力学、流体学、気学などより土台となる原理に含まれるものが、急速に続いた。」               (Cairnes[1888]85)

ケアンズの指摘する修正すべき「中間原理」は、したがって他の学問より帰納的そして演繹的に獲得された究極的な原理から、ミルまでの古典派経済学者が演繹を行い説明しようとする、まだ事実によって検証され確定されてはいない原理(説)を指す。 
         

2024年4月16日火曜日

20240415 株式会社河出書房新社刊 ウンベルト・エーコ著 和田 忠彦監訳 石田 聖子・小久保 真理江・柴田 瑞枝・高田和弘・横田さやか 訳「ウンベルト・エーコの世界文明講義」 pp.350-353より抜粋

株式会社河出書房新社刊 ウンベルト・エーコ著 和田 忠彦監訳 石田 聖子・小久保 真理江・柴田 瑞枝・高田和弘・横田さやか 訳「ウンベルト・エーコの世界文明講義」
pp.350-353より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4309207529
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309207520  

 妄想ーひとつであれ複数であれーというテーマで話をと依頼されて考えてみたところ、現代における妄想といえば、そのひとつは間違いなく陰謀にかかわるものであろうと思いあたった。インターネットでちょっと検索すれば、どれほど多くの陰謀(当然、どれも偽物だが)が告発されているか、すぐに分かる。しかしながら、陰謀という妄想はわたしたちの時代特有のものではなく、過去にもかかわるものである。

 歴史上陰謀がこれまで存在してきたこと、そしていまも存在することは明白だと思われる。ユリウス・カエサルの殺害に、火薬陰謀事件、ジョルジュ・カドゥダルの恐ろしい爆弾装置、どこかの会社の株式を買い占めるため日々実行されている金融機関の陰謀。だが現実における陰謀の特徴は、ただちに露見する点にある。陰謀が功を奏する(ユリウス・カエサルの例をみよ)にせよ、失敗する(ナポレオン三世を殺そうとしたオルシーニの陰謀、ユニオ・ヴァレーリオ・ボルゲーゼが一九六九~七〇年に計画した、いわゆる「森林監視隊のクーデター」、はたまたリーチオ・ジェッリ)にせよだ。現実の陰謀は神秘めいてはいないため、ここでは扱わない。

 それよりもわたしたちの興味をひくのは、陰謀症候群や、ときに世界的に広がる陰謀論でっちあげ症候群という現象である。これはインターネット上にあふれていて、ジンメルがいうところの秘密と同じ特徴を備えているために、永久に神秘的で不可解なものでありつづける。その特徴は、中身がからっぽであればあるほど、秘密はより強力で、誘惑的になるというものだ。中身のない秘密は脅迫的に映り、暴露されることも、異論を唱えられることもない。まさにそれゆえ権力の道具となる。

 多くのウェブサイトで話題にされている第一の陰謀、九・一一について話そう。巷にはたくさんの推理が出まわっている。まず、陰謀はユダヤ人によって企てられたという極説がある(アラブ系のイスラム原理主義か、ネオナチ系統のウェブサイトにみられる)。あのふたつの高層ビルに勤務していたユダヤ人は、当日出勤しないように指示されていたという。レバノンのテレビ放送局アル=マナールで伝えられたニュースは明らかに偽物だった。実際には、あの炎上によって、数百人のユダヤ系アメリカ人とともに、イスラエルのパスポートを有する市民が、少なくとも二〇〇人は命を落としている。

 ほかには、アフガニスタンとイラクに侵攻するための名目ほしさに攻撃を企てたとするアンチ・ブッシュ説がある。アメリカ合衆国の、多かれ少なかれ正道を逸したさまざまな諜報部の手によるとする説もあれば、陰謀はアラブ系のイスラム原理主義者によるものだが、アメリカ政府は事前にその詳細を把握していたにもかかわらず、のちにアフガニスタンとイラクを攻撃する口実をつくるため、事態になんら対処しなかったという説もある(日本と戦争をはじめるための建前が必要だったために、目前に迫った真珠湾攻撃のことを知りながら、船隊を救うためになにもしなかったと言われたルーズベルトの例と似ている)。こうした事例すべてにおいて、陰謀のうち少なくともどれかひとつでも支持する者たちは、公的な事件再現は誤りであり、詐欺であり、子どもだましだと考えているわけだ。

 これらのさまざまな陰謀説について知りたいと思うなら、ジュリエット・キエーザとロベルト・ヴィニョーリ監修による『ゼロー九・一一の公式発表が虚偽である理由』を読んでみるといい。信じがたいことだろうが、世の中で尊敬されている人たちの名が協力者として挙げられている。敬意のしるしに、名前は挙げないことにする。

2024年4月15日月曜日

20240414 中央公論新社刊 中公クラシックス 宮崎市定著「アジア史論」 pp.226-228より抜粋

中央公論新社刊 中公クラシックス 宮崎市定著「アジア史論」
pp.226-228より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4121600274
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121600271

 東洋の絵画は、紙或いは絹という光沢のある滑らかな書写材料の発明により、早く壁画から脱却して机上の鑑賞物となり得たが、西洋においては長く後世まで壁画的用途から抜け出すことが出来なかった。そのために油絵具のように強い色彩で比較的大きな絵を描かなければならなかったのである。幸いルネッサンス以来の力強い科学文明が背景となって、芸術を推進したから、道具に圧倒されない独自の境地を保ちながら、絵画芸術が以後引続いて発展して来た。これに反し、東洋画はあまりに早く適当な書写材料を入手し得たために、むしろ緻密な小品画に傾いて、大作といってもせいぜい襖絵か屏風の程度に止まったのは遺憾なことであった。しかしながらそういう枠の中においてはまた独特の発達を遂げたことも見のがしてはなるまい。殊に画巻、絵巻物の発達はヨーロッパにおいては遂に見るを得なかった特殊なものである。

 西洋画を見るには西洋画を見る見方があるように、東洋画にはまた東洋画に対する見方がある。例えば東洋画の山水には遠近法がないという非難は屡々聞くところであるが、実はやはり一種の遠近法がある。西洋画の遠近法は全景が例えばカメラの暗箱の中に映るように、焦点を固定したまま、無限大の距離から眺めた遠近法に従っている。ところがわれわれは突然に肉眼をもって焦点を移動させながら見るのである。画巻を捲く際に特によくこのことが分かるので、われわれは目を活動写真機械のように絶えず前方へ移動させてゆかねばならない。掛軸は多く縦に長いので、この場合はわれわれは飛行機に乗って景色を俯瞰するように、焦点を連続的に前方へ推進するのである。だから遠方の山や人物が近景のそれと殆ど変わらなくても別に差支えない。ただ遠景も近景も同一画面に写されているから、心持それを小さく描けばそれで十分な場合もあり、逆に遠方を片側ずつ見た二つの面としてそれを合わせれば、遠くへ行くほど幅が広がる場合もあり得ることになる。山水を観る人ならば自ら画中の人となって、小径を伝わって麓から峰まで、悠々風景を鑑賞しながら彷徨して行かなければならないのです。東洋画の山水はいわば一種の立体的遠近法によって描かれているのである。

 東洋画に西洋画のような戦争画や裸体画が発達しなかったのは確かに手落ちであるが、一方、山水画が他の世界に魁て発達した点は誇るに足るものがある。東洋においても山水は元来人物の背景として出現したのであるが、そこから山水だけが独立して単独に賞玩されるようになることは、一般文化がある水準に達して初めて起る現象である。

 唐代の山水にはなお宮殿楼閣の付属物としての意味が多かったと思われるが、王維の綱川雪景図は純然たる山水画であり、それが宋以後になってむしろ絵画の主流を形成することになった。

 人事を離れた自然そのものの面白さを発見して、絵の題材とするのは、人類が作為的な人事現象に深い反省を加えてから後に初めて行われるものである。西洋においても風景画は、宗教画や人物画をあらゆる角度から見つくした揚句に現れ始め、それが一般化されたのは、東洋と直接交通を開いた十七世紀のオランダにおいてである。

2024年4月13日土曜日

20240412 朝日新聞社刊 神坂次郎著「紀州史散策 トンガ丸の冒険ほか」pp40‐46より抜粋

朝日新聞社刊 神坂次郎著「紀州史散策 トンガ丸の冒険ほか」pp40‐46より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4022605170
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4022605177

紀氏の朝鮮出兵
応神天皇の三年ー

 この年、ヤマト国家から百済の辰斯王の無礼を糾弾するため、四人の将軍がつかわされた。その四人は、紀角宿禰、羽田矢代宿禰、石川宿禰、木菟宿禰で、いずれも武内宿禰の子である。

 将軍たちは、百済の国びとは辰斯王を殺して謝罪したので、枕流王の子、阿花をたてて王とし帰国の途についた(「日本書紀」)。

紀角宿禰(紀臣系の始祖)は、のちに仁徳天皇の四十一年春三月、ふたたび百済に赴いている。このときも、王の一族である酒君の非礼を詰問するためであったが、百済はおそれて鉄の鎖で酒君を縛して差しだした。

紀氏の朝鮮での記録は、まだある。

雄略天皇の九年(四六四)春三月、新羅征伐をくわだてた雄略は、みずから兵をひきいて朝鮮に渡ろうとしたが、神の告げによって断念した。そのかわり紀角宿禰の孫にあたる紀小弓宿禰をはじめ、小弓の子の小鹿火宿禰や蘇我韓子宿禰、大伴談連の四人を大将軍に任じ新羅征討を命じている。

 これを命じられたときの小弓の返辞が、ひどく人間くさくておもしろい。小弓は大伴室屋大連を介して天皇に、

〈臣は敬みて勅をうけたまわります〉

そういっておいてから小弓は「ただし」と声をかさねている。

〈ただし今、ヤツガレが婦みまかり(死)たるときである。能く臣を視養う者なし、公、ねがわくばこのことをもて具に天皇に陳せ〉

小弓の訴えを耳にした天皇は、

〈天皇、聞し召して悲しび頽歎き給いて〉

と「日本書紀」にあるから、天皇も小弓の心境に大いに同情したらしい。吉備上道采女大海を小弓に与えたという。

 さて、話を新羅征伐のうえにもどすと、天皇から采女の大海をたまわった小弓は、喜色をみなぎらせて海を越え、各地で新羅軍と戦いこれを撃破し、ついに喙の国(大邱付近)を平定させた。

 が、なおも服従しないで抵抗する地域がある。小弓はこれを掃滅すべく攻撃した。ところがこの地方の新羅軍は頑強で、手ひどく反撃した。

激戦になった。

 この烈しい戦闘で討伐軍は、大伴談連と紀崗前来目連(和歌山市岡崎)の二将軍を失っている。

 乱戦のさなかで、あるじの大伴談連の姿を見失った従者、大伴津麻呂が戦場をたずねまわっていると、誰かが大伴談連の戦死を告げた。倒れている主の屍をみた津麻呂は、大地を踏みつけて叫びをあげた。

「主、すでに死にたり、なにをもって独り全けらむや」

そういうと津麻呂は、敵軍のなかへ突撃して死んでしまった。

討伐軍の悲運はそれだけではない。

大将軍の小弓が、にわかに病いを発して陣中で没したのである。

雄略天皇の九年、夏五月。

陣没した小弓にかわって、子の紀大磐宿禰が新羅に渡ってきた。

大磐は武将らしい剽悍さを泛べて、鷲のような鋭い目をしていた。大磐は、小鹿火(大磐とは異母兄弟)が今まで掌握していた兵馬、船官といった小官を自分の思いのままに動かした。

 異母兄弟でありながら大磐と小鹿火は、ふだんから仲がよくなかった。まして大磐に兵馬軍船の指揮権を奪われて小鹿火は憤懣やるからない。肚裡にふかく恨みを抱いていた。小鹿火は同僚の将軍、蘇我韓子宿禰に大磐のことを中傷した。

「気をつけろよ。大磐がおまえの兵馬をとりあげるといっていたぞ」

そんなある日

百済の王から将軍たりに招きがあった。大磐をはじめ諸将たちは馬首をならべて出かけていった。途中に河がある。

大磐はその河のほとりで馬からおり、水を飲ませた。そのとき、韓子の胸中に殺意が湧いた。韓子は大磐の背後から矢を放った。が、狙いははずれた。韓子の矢は大磐の馬の鞍瓦の後橋に突き刺さった。

 おどろいて振り返った大磐は、弓をとるより迅く韓子を射殺した。

 このような将軍間の内紛に、新羅討伐軍は動揺した。大磐をおそれた小鹿火は、父の小弓の喪に服するという口実をもうけて帰国し、大伴大連を介して、

「やつがれ、紀卿(大磐)と共に天朝に仕えたてまつることに堪えず」

と奏上し、角国(周防国都農郡)にひっこんでしまった。

神聖王、紀大磐

 しかし、紀一族の朝鮮半島への進出はまだつづいている。

紀大磐宿禰である。

ときに、顕宗天皇の三年(四八七)。この年、紀大磐宿禰の率いる軍団が、ふたたび海を越えて任那日本府に着いた。

 大磐は日本を離れたときに、心にきめていた。韓子を射殺したあの事件いらい、大磐は人を信じるのが恐ろしくなっていた。欝々とした日がつづいていた。いっそ、日本を捨ててやろう。そして、武人としての力のかぎりを異境の修羅にぶちこんでやろう。大磐はそう思っていた。

『日本書紀』によれば‘‘大磐の軍団は任那を跨よりて高麗に行き・・・とある。アトゴエとは跨ぐことで、任那から高麗の地を股にかけて・・ということなのであろう。そして大磐は宣言した。

〈三韓(百済、新羅、任那)の王たらんとし、官府をととのえ、みずから神聖と称り・・〉

というのだ。壮大な野望である。 

 そしてそのコトバのように神聖王(紀大磐)の指揮する軍団は、百済のチャクマニゲを爾林(高麗の地)に討ち殺し、帯山城を築いて百済軍の粮道を断つために、街道を遮り、港をおさえた。

 狼狽した百済王は、将軍コニゲ、ナイトウマクコゲらに軍兵を与え、帯山城に総攻撃をかけた。が、惨憺たる結果であった。大磐の軍は、一をもって百にあたるといわれたくらい勇猛で、百済王の軍兵はたちまち撃ち破られて四散する。

ーだが、神聖王、紀大磐宿禰の足跡がわかっているのはこの頃までで、それ以後の消息はない。

『日本書紀』では、大磐は任那から帰った(日本へ)と記されているが、飯田武郷の『日本書紀通訳』(七十巻本)ではそれらに反論して‘‘朝廷にてはこの(大磐の)謀をしろしめし給わずや、いと不審‘‘と述べている。

 当然であろう、紀大磐宿禰はヤマト政権に一種の叛をくわだてたのである。それが日本に帰ろう筈はない。

とすれば、大磐はいったい何処へ消えてしまったのか、すべてがナゾである。もちろん、このとき以後の大磐の日本での記録はない。

 ただ、この時から更にくだった欽明天皇の頃の百済国の歴史書『百済本記』によると、〈紀臣の奈卒(百済の官位)彌麻沙〉という人物がいたという。この彌麻沙のことを、〈けだしこれ紀臣、韓の女をめとりて生ませたり。よりて百済にとどまりて奈卒となれる者なり。未だその父(の名)を詳らかにせず〉と記している。

 もし、大磐の行方に推測の橋を架けるとするならば、この彌麻沙の父に繋いでみたいものである。 

 もちろん、これとても単なる推測にすぎない。それはあたっていないかもしれない。けれど反面、あたっていないといえる資料もまたないのだ。



2024年4月11日木曜日

20240411 朝日新聞社刊 神坂次郎著「紀州史散策 トンガ丸の冒険ほか」pp37‐40より抜粋

朝日新聞社刊 神坂次郎著「紀州史散策 トンガ丸の冒険ほか」pp37‐40より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4022605170
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4022605177

 紀氏が神話の世界から歴史のうえに足を踏み出してくるのは、ヤマト朝から国造に任じられてからである。

 いらい、国造家(紀直系)の活躍ぶりはすさまじい。これら紀氏の政治活動の根底になったのは、いうまでもなく紀ノ川流域に形成された豊穣な農耕地帯である。紀氏は、畿内でもめずらしいほどの美田にめぐまれていた。もともと農耕を主とした部族である。農業土木の法に長じていた。関西大学の薗田香融氏は、平安末期の民間史料で、紀氏の奉祭するヒノクマ・クニカカスの宮のことを農耕民たちは名草溝口の神とよんでいた例がみられるといわれ、さらにまた日前宮のすぐ背後には音浦樋とよぶ用水取り入れ口があり、ここから広大な条理区へ向けて蜘蛛手のように灌漑用水が分配される仕組みになっている。大規模な名草用水を開き、広大な耕田用地を開発したのは、紀伊国造の遠祖にあたる紀直の族長であり、その時期は古墳時代の初頭とみても、おそらくあやまりはあるまい、とも述べておられる。

 農耕民たちの信奉する溝口神とは、農業用水をもたらす神であり、そしてその司祭者の紀氏は、この水利権を一手につかんで農耕民たちを支配したのであろう。さらに紀氏は、農耕集団だけではなく、片手に紀ノ川平野の穀倉地帯をにぎり、もう一つの手に紀州沿岸から瀬戸内におよぶ海人集団(水軍)をも掴んでいた。

 しかし、紀氏の勢力がヤマト国家のなかでも異例と思える発展を見せるのは、景行天皇の三年、天皇の命をうけて紀伊国の阿備柏原に赴いた屋主忍男武雄心命と紀伊国国造の六代、莵道彦の娘、影媛とのあいだに生まれた武内宿禰(『古事記』〈孝元天皇条〉『日本書紀』〈景行天皇三年条〉「紀伊続風土記」「紀伊国造系図」)を始祖とする竹内流紀氏(紀臣系)がヤマト朝廷の中央貴族として根を張り枝をひろげるようになった頃からである。

 事実、紀氏の勢力は目をそばだたせるほどの勢いでヤマト政権のなかに膨れ上がり、各地に拡がっていく。

 この紀という国名を姓にもった紀氏は、その分流の多いことは源氏、平氏、藤原氏の三姓につぎ、橘氏に匹敵するほどである。

 いま仮りに、それら諸般各様な紀氏をここに書きつらねてみるとー

まず、出雲系の紀氏・紀直(紀伊国造)・和泉の紀直・河内の紀直・肥前の紀直・紀臣(武内宿禰の子、紀〈木〉角宿禰の裔)・和泉の紀臣・紀伊の紀臣・伊予の紀臣・伊賀の紀臣・紀奥・紀君・紀宿禰(紀伊国造の一族)・大和の紀宿禰・丹波の紀宿禰・筑前の紀宿禰・紀朝臣(武内宿禰の裔)・平群流の紀朝臣・波多野流の紀朝臣・和泉の紀朝臣・巨勢流の紀朝臣・紀角宿禰の紀朝臣(己智の裔)・越中の紀朝臣・川瀬流の紀朝臣(紀伊国造の裔)・紀伊の紀朝臣・苅田流の紀朝臣・大宰府の紀氏・山城の紀氏・大和の紀氏・摂津の紀氏・和泉の紀氏・伊賀の紀氏・尾張の紀氏・駿河の紀氏・武蔵の紀氏・安房の紀氏・常陸の紀氏・近江の紀氏・美濃の紀氏・下野の紀ノ党・岩代の紀氏・磐城の紀氏・陸奥の紀氏・出羽の紀氏・伊賀の紀氏・越前の紀氏・能登の紀氏・丹後の紀氏・伯耆の紀氏・因幡の紀氏・石見の紀氏・美作の紀氏・周防の紀氏・長門の紀氏・紀伊の紀氏・阿波の紀氏・讃岐の紀氏・伊予の紀氏・筑前の紀氏・筑後の紀氏・豊前の紀氏・肥前の紀氏・肥後の紀氏・薩摩の紀氏・大隅の紀氏ー

 といった具合で、かぞえあげればキリがない。煩雑を承知のうえで各地における紀氏を書き並べてみたのだが、これだけでもザっと七十はこえている。紀氏は、この他にもまだある。平氏と混じて生まれた紀平、藤原氏と合した紀藤などまでも含めるとすれば、それはおびたたしい数にのぼる。

でー

これらの沢山な紀姓の発生は、もちろんヤマト中央政権のなかで紀氏が強大な勢力をふるっていたからにちがいないが、その紀氏系の活躍を背後から支えていたのは、かれらの本貫の地である紀伊国に君臨する紀伊国造の掴んでいたコメと水軍と、そしてその船を造る木であった。紀伊国は温暖の地で、良材にめぐまれている。ヤマト朝廷の宮殿やその他の建築用材の供給地でもあったし、また海に囲まれている紀伊国は、古代からすぐれた造船技術をもっていた。紀伊独自の大型外洋船の建造技術と航海術がある。おりからヤマト政権が朝鮮半島へ軍事的進出をする最盛期にあたっていたことも紀氏の発展に拍車をかけた。

 朝鮮といえば、紀伊国は古代から朝鮮とのつながりがふかく、帰化人も多い、だいいち、木の国の国名にもなった木の出現の神話にしても、主人公のイソタケルと父スサノオが新羅から紀伊にくだったということになっている。そのうえ、この伝承じたい、奇妙に朝鮮の神話にダブりをみせるのである。

 朝鮮の檀君神話では、

〈あるとき、神様が朝鮮を支配するために檀というところへ子供をおろし、平定させた。そのときに神様は、下界におりていく子供のために雨師、風師、雲師という神々(職能神)をつけてやった〉

のだという。

 それは、新羅から紀伊国にむかうイソタケルが、スサノオの分身である八十の木種をもらってくるシーンとひどく酷似しているのだ。


2024年4月9日火曜日

20240409 株式会社 草思社刊 ポール・ケネディ著 鈴木主税訳「大国の興亡―1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争〈上巻〉」pp.375-376より抜粋

株式会社 草思社刊 ポール・ケネディ著 鈴木主税訳「大国の興亡―1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争〈上巻〉」pp.375-376より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4794204914
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4794204912

 一九〇二年に日英同盟が結ばれたとき、イギリスの政治家たちが期待したのは、特定の状況のもとで日本を援助するためのコストがかかっても、中国における戦略上の負担が軽減されるということだった。そして一九〇二年から三年のあいだには、イギリスの上層部は、植民地問題についてフランスと和解できると考えるようになった。先のファショナダ事件でも明らかだったように、フランスはナイル川流域をめぐって武力に訴えるつもりはなかったのである。

 こういった協定はいずれも、初めのうちこそヨーロッパ以外の問題にのみかかわるようにみえたが、それらはヨーロッパの大国の地位に間接的な影響を与えた。西半球におけるイギリスの戦略的なジレンマが解消し、極東では日本海軍から援助を受けることになったため、イギリス海軍の海上配備にたいする圧力はいくらか弱まり、戦時に足場を固められる可能性が大きくなった。また、英仏間の反目が和らいだ結果、イギリス海軍の信頼性はいちじるしく高まった。こうした状況のすべてがイタリアにも影響を与えた。イタリアは沿岸地帯が非常に無防備で、英仏の連合に対峙することができなかったからだ。とにかく、二十世紀初頭の数年間に、フランスとイタリアには(経済と北アフリカ問題における)関係を改善する絶好の口実ができたのである。しかし、イタリアが三国同盟から離れていけば、オーストリア‐ハンガリーとのあいだで表面化しかけていた小競り合いに影響をおよぼすはずだった。結局は、日英同盟という距離的に隔たった結びつきですら、ヨーロッパにおける国家間の秩序に間接的な影響をおよぼすこととなった。一九〇四年に、日本が朝鮮と満州の将来をめぐってロシアに強い態度でのぞんだとき、その同盟のおかげで第三者たるどの大国も介入できなかったのである。さらに日露戦争が勃発したときにも、日英同盟および仏露同盟の特別条項によって、「セコンド」としてのイギリスとフランス両国は、公然と戦争に巻き込まれることをたがいに避けるよう、しっかりと釘をさされていた。それゆえ、極東で戦争が起こるやいなや、ロンドンとパリが植民地をめぐる争いを終結させ、一九〇四年四月に英仏協商を結んだことは驚くにはあたらない。長年にわたる英仏の争いー一八八二年にイギリスがエジプトを占領したことに端を発していたーは、もはや立ち消えとなっていた。